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第50回ソロトゥルン映画祭 「スイス映画」の終わり、個性あるスイス人シネアストが生きる!

ソロトゥルン映画祭の会場「エリーテ・シネマ(Elite cinema)」では昔、鑑賞チケットの値段は4~6フラン(約500~800円)だった

ソロトゥルン映画祭の会場「エリーテ・シネマ(Elite cinema)」では昔、鑑賞チケットの値段は4~6フラン(約500~800円)だった

(Giornate cinematografiche di Soletta)

スイス映画界を代表するイベントの一つ、ソロトゥルン映画祭が今年で50回目を迎える。始まりは1966年。詩的でありながらも、大胆に政治問題に切り込む、新しい映画の誕生を内外に示した。スイス人シネアスト(映画人)のタネール、ゴレッタ、ステー、シュミットなどの作品は現在も世界中で愛され、その輝きを失ってはいない。

 ソロトゥルン、1966年。映画界のプロが初めて一堂に集まり、スイス映画の行く末について議論を交わした。当時、劇場入場者数は低迷し映画界には変化が訪れていた。

 すでにその数年前から、スイスでは新しい世代のシネアストが生まれていた。彼らは反画一主義で反政府的、そして政治的な問題に目を向けていた。50年代にはフランツ・シュナイダーやクルト・フルーなどがスイスの牧歌的なイメージや中産階層を題材にした作品で人気を博していたが、欧州で人気の高まっていた映画作家の影響を受けた新しいシネアストたちはそれを拒絶した。

 むしろ工場や学校などを訪ね歩き、移民、社会の周辺に生きる人々を映し出し、現実の世界を語ろうとした。また16ミリカメラと録音機が出現し撮影に自由が生まれたことも助けになった。

 スイス映画の転換期は、64年のスイス国内博「エキスポ64」で公開されたヘンリー・ブラントの短編映画シリーズ「La Suisse s’interroge(スイスは問う)」とアラン・タネールのドキュメンタリー映画「Les apprentis(見習工)」とともに訪れた。同年には、初めて外国人を主人公に取り上げた、アレクサンドル・ザイラーの「Siamo Italiani(我ら、イタリア人)」も公開された。

 そして、初めて映画関係者が一堂に会したソロトゥルンで映画祭が開催され、内外に新しいスイス映画の誕生を知らしめた。以降80年代にかけて、タネール、ゴレッタ、ステー、ディンド、シュミット、ムーラー監督の作品はヨーロッパを超え海外にも広まり、スイス映画界の黄金時代を築く。海外メディアはこの成功を、「スイスの小さな奇跡」と呼んだ。

スイスのヌーベルバーグ

 それまであまり知られていなかったスイスの映画界は、タネールと撮影監督のレナート・ベルタの長編デビュー作「どうなってもシャルル」(1969年)の公開と同時に海外から注目される。

 当初より、スイス・フランス語圏ではテレビ局が映画製作を率先していた。タネール、ゴレッタ、ステー、ジャン・ジャック・ラグランジュ、ジャン・ルイ・ロワの5人の若手監督はテレビ局の仕事を通して実践を積み、後に映画製作会社「グループ5」を設立。

 連邦内務省文化局映画部の責任者で、ソロトゥルン映画祭のディレクターを務めたこともあるイヴォ・クマー氏は、「スイスには映画学校がなく、映画を志す者は、独学で技術を学ぶか、国外に留学するしかなかった。テレビ局は必然的に重要な学びの場となり、フランス語圏の若手監督の踏み台となった」と語る。 

(Solothurner Filmtage)

スイス映画の成功は続く。71年にはタネール監督の「サラマンドル」がスイスで14万5千人、海外でも200万人以上の観客を動員(スイスの映画雑誌「シネ・ブルタン」による)。数年後にはゴレッタ監督の「レースを編む女」が、パリだけでも50万人の入場者を記録した。

 フランス語圏の海外での成功を受け、ドイツ語圏でも映画制作に火が付いた。だがドイツ語圏では、国外ではあまり観客の付かない政治的・社会的なドキュメンタリー映画が好まれた。一方で、映画とテレビの制作者の間には少なからず対立があり、それがドイツ語圏でフィクション映画が立ち遅れた原因ともなった。数々の逸話と証言を集めてスイス映画史のヌーベルバーグに関する本を執筆したトーマス・シェーラーさんは、「若手シネアストはテレビ局の制作者を『裏切り者』だと言い、反対にテレビ制作者はシネアストを頑固者で作品が試験的すぎると感じていた」と言う。

団結が強さを生み出す

 言語と文化の壁にも関わらず、60~70年代の若手シネアストの間では特に政治に関して充実した議論が交わされた。政治的影響を受けない、自由な作品を作ることは困難だった。映画界のストラクチャーは存在せず、資金も乏しい。シネアストは映画クラブや学校、団体などを回り、自ら作品の宣伝をしなければならない。ならば、公的な援助を得ることが最重要課題だ。若きシネアストたちは、団結が強さを生むと悟った。

 仏・独語圏の中間に位置するという立地条件もあり、ソロトゥルン映画祭はすぐにシネアストたちの出会いと討論の場となる。

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 公的援助を得る。これが映画祭初回からの中心的テーマだった。どの作品に出資を頼むのか?誰が決定するのか?その選出の基準は?

 だがスイス映画界が新しい作品を望む一方でシネアストたちは、教会や冷戦の影響が色濃い保守的な社会と折り合いをつけなければならなかった。

 「この時期に制作されたドキュメンタリー映画は多くの場合、世論を巻き起こし、国レベルで議論されることもあった。今日の作品よりも政治的に大きなインパクトがあった」とシェーラーさんは指摘する。

 例えば、76年の映画祭で初公開されたディンドの「L’exécution du traître à la patrie Ernst S.(祖国に背いたエルンスト・Sの処刑)」。第2次大戦中のスイスの微妙な立場を、初めて批判的な視点から扱った作品だ。スイス政府は、「世論操作の傾向がある」として、予定されていた賞の授与を拒否した。

その過去が現在に残すものは?

 初回から半世紀が経ち、毎年平均5万人が訪れるソロトゥルン映画祭は順調だ。だが映画祭は昔のように討論の場ではなくなった、とシェーラーさんは言う。「今日のシネアストはより個人主義だ。環境も整っている。誰かと意見交換するには、メールやスカイプもあれば、他の映画祭もある。スイスの映画監督はもはや、自分が映画史の変革期に身を置いていると感じていない。それに、『スイス的』な映画の典型もなくなった。作風も個々に異なっており、海外で脚光を浴びてもそれが『スイスの奇跡』だとひとくくりに位置づけられない」

 それでも、当時の映画はまだモデルとなっているのだろうか?州立ローザンヌ美術大学の映画学部長で、新世代のスイス人監督の中心的存在でもあるリオネル・バイエールさんは「学生の間では、60~70年代のスイス人監督がまた人気を集めているようだ。彼らは、16ミリカメラや、政治問題と詩が見事に調和された作品に改めて魅了されている」と語る。

 だが社会は変化する。世界はもはや東西に分断されてはいない。「映画だって同じこと。善と悪を分けて映し出すのではなく、ある事象を多角的な面から映し出そうとしている。スイス映画はもはや問題を打ち抜くだけの『ピストル』ではない」とクマー氏は話してくれた。

「スイス映画の危機が言われているが(中略)、それは実質的な危機ではなく、映画の誠意、ビジョン、勇気、そして責任の危機だ(中略)。私は『スイス映画』ではなく、『スイス人シネアストの作る映画』の力を信じている」。これは1966年第1回ソロトゥルン映画祭でステファン・ポートマン氏が語った言葉だ。

教授でシネアストでもあるポートマン氏(1933~2003年)は1967~86年まで映画祭を指揮した。

(出典:トーマス・シェーラー著「Zwischen Gotthelf und Godard」リマト出版社、2014年)

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(仏語からの翻訳・編集 由比かおり), swissinfo.ch

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