スイスの中立はどこへ向かうのか?

1962年、ジョン・F・ケネディ米大統領の有力顧問は、アウグスト・R・リンツ駐米スイス大使に(満足の意を示して)こう言った。「もし、中立国スイスが存在しなければ、創設すべきだろう」。また、「キューバ革命の英雄中の英雄」が列席した64年の公式レセプションでは、キューバのフィデル・カストロ議長がエーミール・シュターデルホーファー駐キューバ・スイス大使に、大使の貢献に対する感謝の印として、自分のオリーブグリーン色のベレー帽を渡した。 Documents Diplomatiques Suisses, dodis.ch/40943
このコンテンツは 2020/03/19 10:00

スイスの暗号機器メーカー、クリプト社をめぐる国際スパイ疑惑(クリプト事件)によって、冷戦時代にスイスが東西両陣営から必要とされた古き良き時代が再び話題となっている。米中間に冷戦の兆しがある中で、スイスのこの立ち位置は再び機能するのだろうか?確かなことは何もない。

スイス中央部ツーク州にあるクリプト社の暗号機を使って大規模なスパイ作戦が展開されていたことが最近になって明らかになり、その規模と実施期間の長さにスイス国民の間に衝撃が走った。喫緊の課題は、クリプト社を実は所有していた米独の情報機関が暗号機を(解読可能に)不正改造していた事実をスイス当局がどの程度把握していたかを解明することだ。

スイスで、クリプト事件は幕を開けたばかりだ。関係者の中には今も要職にある人がいる。例えば、連邦情報機関(NDB)の前長官で、現在、連邦外務省の事務次官を務めるマルクス・ザイラー氏だ。

アイデンティティとしての中立

今回の事件によって、スイスの中立が再び話題に上った。スイスの中立は国際法上認められた法的地位であり、スイス国民の大多数が強い愛着を持つ。連邦工科大学チューリヒ校安全保障研究所(CSS)は、年次報告書「安全保障」の最新版(2019年)で、「スイスの中立を承認する人の割合は記録的な数に上った。調査対象者の96%がほぼ全員一致で中立の維持を支持する。(中略)また、スイスのアイデンティティを形成する要素として、スイス国民は性別を問わず中立に高い価値を認めている」と指摘する。

実際、ドイツ語、フランス語、イタリア語を話す国民が共存するスイス国内に、中立は平和をもたらすことを、第一次世界大戦からすでに、スイス政府は誰よりもよく分かっていた。

その一方で、冷戦中の国際社会では、注目すべきことに、ソ連の全体主義に対抗する西側陣営に中立国スイスはくみしている、とほとんどの国が認識していた。米国が「世界の警察」としての役割(と特にアジアを荒廃させた戦争)を正当化しようとして持ち出した「自由世界の防衛」は単なるプロパガンダではなかった。しかし、スイスでは当初からソビエト体制排斥の声がとても大きかった。

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「第一次世界大戦の前でさえ」と歴史学者のハンス・ウルリッヒ・ヨスト氏は強調した上で、「左翼そして共産主義との闘いは実際、スイスの外交方針の1つだった。しかし、それは工業国としてのスイスが、ソ連や毛沢東主義の中国に対して門戸を完全に閉ざしたという意味ではない。スイスの経済的利益に影響があれば、この外交方針を少し曲げることもできた」と説明する。

スイスのこの立場は、スイスが調停役をすることを何ら妨げるものではなかった。「スイスの中立は1953年、その有用性を世界に示した。スイスは『西側の中立国』として朝鮮半島に入り、休戦監視及び戦争捕虜の本国送還に関する委員会(中立国監視委員会)に参加した」と、スイス歴史事典は「冷戦」の項目で指摘する。

また70年代初頭以降、東側と西側との歩み寄りを可能にした欧州安全保障協力会議―欧州安全保障協力機構(OSCE)の前身-でもスイスは調停役を果たした。

米国の要求

しかし、クリプト事件によって、冷戦時代のスイスは米国の要求にかなり応じていたことにも再び注目が集まっている。「50年代初頭まで、スイスは米国に冷遇されていた」とヨスト氏は話す。ナチスドイツやその埋蔵金に関して、スイスが融和政策をとっていたからだ。ヨスト氏がスイスの中立性に関する見解を述べた論文によれば、「そして、スイスと米国との間で非公式に結ばれたホッツ・リンダー合意-スイスが東側諸国に対して戦略的製品を輸出することを制限-にスイスはほとんど忠実に従っていた」。

他の多くの国々と同様に、スイスも常に安全保障、経済、政治の3種類の対外関係を推し進めてきた、と元外交官でスイス連邦外務省の高官でもあったジョルジュ・マルタン氏は強調する。「しかし、判断は経済や安全保障を考慮して行われることが多かった。連邦外務省は、他の西側諸国との違いを見せる対外政策を展開しようとした。ところが、(我々もそうかもしれないが)省内の理想主義者や、国際社会(国連)との連帯と国際社会への積極的関与というスイスの条理は、自国の経済や安全保障にかなったものであるべきことをよく回顧された」

スイス製のラベルが貼られたクリプト社の暗号機を使って行われたスパイ活動の規模は尋常ではない。しかし、「すべてを冷戦の責任にすることはできない。スパイ作戦はベルリンの壁が崩壊した後も約10カ国を対象に長く続けられたからだ。スイスの信用失墜を抑える最善の方法は、起きたことをすべて明らかにすることだ」とマルタン氏は、フランス語圏の大衆紙ル・マタンのスイス対外政策を分析・解説するブログで指摘した。

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フランス語圏のスイス公共放送(RTS)が2月20日朝に放送したニュース番組「ラ・マティナル」の中で、元外交官のマルタン氏は、クリプト社をめぐる疑惑は「ミラージュ・スキャンダルやフィシュ・スキャンダルと(重大性という意味で)同じ領域にある」との見解を示した

他方、歴史学者のヨスト氏は、57年に報道機関が暴露し、世間を騒がせたもう1つの事件を取り上げる。連邦検察官のルネ・デュボア氏が、アルジェリア民族解放戦線(FLN)情報を集めるために、駐スイス・エジプト大使の通話を盗聴し、フランスの情報機関に渡していた事件だ。「これはクリプト社を利用して行われた陰謀と似ている」(ヨスト氏)

ジャーナリストで編集者のシャルル・アンリ・ファブロー氏はこの事件を入念に調査し、2007年にこの事件の詳細を報じた。公式発表によれば自殺したデュボア氏の遺憾な事件のおかげで、当時のマックス・プティピエール外相は、アルジェリアの独立派と交渉を始め、独立派とフランスとの調停役を1962年のエビアン協定締結まで務めることになった、とファブロー氏は指摘した。

命の危険にさらされるネズミ

クリプト事件がスイスの対外関係に及ぼしうる損害を別にして、国際社会でスイスの中立は切り札であり続けるだろうか?ソ連とその同盟国の崩壊後、スイスはこの切り札を失った。スイスが冷戦中に担った役割は、今日では他の国も果たすことができる。例えば、ノルウェーのような北大西洋条約機構(NATO)の加盟国だ。マルタン氏は当時受けたショックを思い出し、「先が何も見えなかった。我々はひどく落胆した。スイスはもはや国際社会の寵児(ちょうじ)ではなかった。非常に流動的な今日の国際関係の中で、立ち位置を見極めるのは以前よりもっと難しい」と話した。

その一方で、ヨスト氏は「スイスは、中立こそ最高の価値であると見せる主体としての信用を失った。そのうえ、国際社会で弱体化する欧州連合(EU)に依存している」と指摘する。

ヨスト氏によれば、スイスは今、2つの選択肢の間で迷っている。「(選択肢の1つは、)米国を介してグローバルなレベルにのし上がろうとすること。つまり、米国との自由貿易協定締結を追求することだ。しかし、金融を別にして、この駆け引きができるほどの影響力がスイスにはない。他方で、外国との日常的な貿易の安全を確保するためには、スイスはEUと協力せざるを得ない。ただし、これは必ずしも将来の見込みがあるとは言えない。EUが団結して、1つのグローバルな主体になることはできないからだ」

だから、マルタン氏が引用するアフリカのことわざをスイスはよく考えるべきかもしれない。「サバンナで象たちが戦うか交尾をするとき、ネズミは命の危険にさらされる」

2月中旬にドイツで開催されたミュンヘン安全保障会議で、マイク・ポンペオ米国務長官は、非常に冷戦時代的な立場から中国を非難した。「我々(西側諸国)は一体となって、(冷戦終結以来)30年以上にわたり、自由と主権を維持してきた。我々は、イスラム過激派のテロリズムの脅威に対しても、世界的経済危機に直面しても、自由と主権を維持してきた。そして今、ますます攻撃的になる中国共産党を前にしても維持しようとしている。(中略)文明の歴史で試されてきた他のどのモデルよりも、自由主義国家は成功を収めているというほかない。我々は基本的人権を尊重し、経済的繁栄を促進し、我が(西側)諸国の全ての人に安全を保障する」

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