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スイス田舎暮らし

今回からブログを書かせていただくことになった麓絵里と申します。ブログを通じてスイスの町興しイノベーター達を紹介していこうと思います。が、初回は自己紹介を兼ねて私が「自分興し」として始めた田舎暮らしのお話しです。

 孔子曰く、50にして天命を知る。50は少々超えていたが3年前に暮らしを一変した。再びゼロからやり直して天命に沿った生活を始めようと思ったのだ。長年勤めた会社を辞めた。そして、22年間住み慣れたジュネーブからヌーシャテル州郊外の農家の一角に移り住んだ。

 引っ越し当日、辺りは真っ白の銀世界だった。雪原に月の光が映えて美しい。私は安らかに眠りについた。翌朝目が覚めたとき、見慣れない景色に驚いて引っ越しをしたことを思いだした。もっと驚いたのは、ジュネーブのアパートの間取りを思い出せなくなっていたことである。一夜でジュネーブの暮らしは遠い過去のものになっていた。

冬景色 swissinfo.ch

 まずは、朝の散歩。長靴を履いて銀世界に飛び出した。頬にあたる空気はきりりと冷たく背筋が伸びる。が、足もとは揺れている。地面が凍って滑るのだ。ヨタヨタ歩いていると、ひとりの婦人と犬一匹が視界に入ってきた。私はとびっきりの笑顔で挨拶をした。「ボンジュール、マダム!そこの農家に昨日越して来た」と言いかける私を遮って婦人は言った。「ええ、ええ、知っていますよ。モニックのお隣さん、日本の方ね。」聴きしに勝る田舎の情報網である。モニックとは、向かいに住む老婦人のことらしい。「モニックがとっても楽しみにしてたのよ。私はマルリーズ。この子はシッピーよ。イギリス人の主人はもう亡くなっちゃったけど、彼と昔香港に住んでいたことがあってね…」夫人の話はよどみなく続いた。 零下5度の外気の下、立ち話することほぼ30分。 私は婦人の半生に耳を傾けながら、足もとからシンシンと凍り付いていた。ヤッパリ田舎は体力勝負だ。これからはもっと着こんで散歩に出ることにしよう。毛糸の帽子も買わなくっちゃ。

 次のカルチャーショックは翌日の朝に訪れた。朝起きて鏡を見ると顔中に赤い点が。病気?アレルギー?? 心持ち痒い。もしかして蚊? ふ、冬に蚊? 私は都会に生まれて都会でしか生活せずに生きてきた。冬と蚊は私の頭の中では同時に存在できない。だが、物証は程なく私の目の前に現れた。ものすごく大きい。なるほど冬の寒さなどちっとも堪えないようなたくましい姿をしている。 咬まれた証拠の赤い点も力強く明瞭だ 。お化粧をしても隠しきれない。会う人ごとに「実は冬に蚊に咬まれまして」と説明するのも恥ずかしく辟易した。

 しかし、この蚊騒動のお陰で私は近所のタクシーの運転手さんと仲良くなることができた。車を持たない私は時々タクシーを使う。ある日曜日バス停に行くと、あらま、 時刻表の日曜欄は真っ白だ。それでタクシーを呼んだ。道々運転手さんに蚊のことを話したら、「ええ!冬に蚊!」と驚かれてこちらがもっとびっくりした。田舎は田舎でも、農家の暮らしはまた違うらしい。それ以後その運転手さんは、私に出会うと車を止めて声を掛けてくれるようになった。 一度冬の嵐が吹き荒れる中拾って頂いたときは、運転手さんが仏様に見えた。

 車を持たない私だが、カーシェアリング を使って時々車を運転する。その日も私はそろそろと車を走らせていた。シンシンと雪の降る夜道だった。 何もない農道の向こうから何かがやって来る。雪のせいで視界はとてつもなく悪い。最初はぼぅっとしていたが、だんだんそれが何か背の高い光り輝く物体であることがわかってきた。ゆっくり、でも確実に近寄って来る。得体が知れないことぐらい恐ろしいものはない。私は凍り付いた。車をバックさせて州道に戻ろうと振り返ったが、後ろは尚更視界が悪い。しかも急な坂道だ。 ああ、どうしよう。その間にも光る物体は近づいてくる。ゆらゆら、確実に。私は車のライトを消した。もう何も見たくなかった。が、ライトを消したお陰で逆に見通しが良くなった。相手の輪郭が見えてきたのである。それは体中に点滅ランプを付けた馬と女性だった。冬の夜に、しかも降りしきる雪の中、彼女は乗馬を楽しんでいるのであった。私はこの予想外の顛末に体中から力が抜けてしばらく動けなかった。

 この辺りの農道は公道ではないので、住民が使う車以外は乗り入れ禁止だ。それゆえ車は多くはないが、 乗馬をする人をよく見かける。だから村には写真の様な道路標識があちこちに立てられている。初めてこの標識を見たとき、何て長閑なんだろう、と微笑ましく思ったものだ。あのときはまさか乗馬者にこんな恐ろしい目に遭わされるとは夢にも思っていなかった。田舎暮らしは都会よりスリル満点である。

カバリエール(乗馬者)に注意! swissinfo.ch
庭に遊びに来た孔雀君 swissinfo.ch

 私が住む農家には、馬、ポニー、鶏、山羊がいる。以前はラマ2頭と孔雀も一羽いた。万年独身の孔雀君はいつも 気前よくその素晴らしい羽を開いてくれた。 私が庭仕事をしていると遊びに来て、ホラっと羽を広げてくれる。見事な羽も毎日ではヤッパリ飽きるので「きれいね〜」と一度は褒めるが、その後は庭仕事に戻る。が、孔雀君は満足せず、ホラっ、ホラっ、と羽を広げてますますすり寄ってくる。仕方なく庭仕事を諦めて、しばらく彼を賞賛することになる。夕焼けに映える七色の羽と庭の緑が美しいコントラストをなして夢のようにきれいだった。

  ここでは朝夕の散歩が出会いの場だ。散歩をする人は大抵犬を連れているので、犬の話から会話が始まる。先日顔見知りのテリア、ウリスが、 いつもの老紳士ではなく、見知らぬ婦人に連れられていたので「ムッシュウはお出かけですか?」と訊ねると、「父は先日亡くなりました」、と思いがけない返事が返ってきた。気がつくと私と初対面の婦人は抱き合っていた。こんなことは都会ではあり得ない。ここでは一つ一つの存在があるべき重みをちゃんと持っている。移ってきて3年の間に彼が逝き、ライカ(犬)とカピ(犬)も逝ってしまった。一方で、大家さんには3人の孫が産まれ、去年はポニー が3頭、今年は馬が3頭産まれた。そして今は山羊のユキちゃんのお腹が大きい。

山羊のユキちゃんとハナちゃん swissinfo.ch
春景色 swissinfo.ch

  倦まず弛まず、必要な時間をかけて生き物は生まれ育ち去ってゆく。土色一面だった大地から魔術のように麦の芽が出てくる。 プルーンの木やリンゴの木が芽吹き、花を咲かせ実を付ける。この辺りの風景は私を立止まらせて言葉のない世界に遊ぶ時間を与えてくれる。贅沢とは、こういうことを言うのだろうか。

麓絵里

大阪生まれ、奈良育ち。1990年よりスイス在住。証券会社、新聞社、製薬会社勤務を経て現在、創造性やグループ・インテリジェンスを育てるコーチ、ファシリテーター。コーチング・メンタリング修士(Oxford Brookes University)、PMP (Project Management Professional)、Time to Think Ltd. (UK)  Facilitator. 

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SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

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