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「西部戦線異状あり」前編

スイス北西部に、その形状から「アヒルのくちばし(Bec de canard)」という愛称で呼ばれている土地がある。この「くちばし」の端には、「ル・ラルジャン(Le Largin)」(以下、ラルジャンと記す)という名の、7,5ヘクタール(75000㎡)ほどの農地がある。知る人ぞ知るこの地は、第一次世界大戦中、緊迫した状況の中で数々の奇跡の交流を生んだ。

このコンテンツは 2015/04/30 08:30
昨年7月20日、「学びの散歩道」開通に合わせてリニューアルされた「km0」地点の標石。写真に向かって右側面には標石番号である111、左には1917という文字が刻まれている。この石を挟んで右手約300mの所からドイツ軍の塹壕が、左手約200mの所からフランス軍の塹壕が北に伸びていた。西部戦線の起点である swissinfo.ch

中立国スイスが、幸運にも冷静に戦況を見つめることができたラルジャンという土地を通して、戦争の恐怖や史実を後世に語り継ぐことはできないか・・・その考えのもと、スイス人有志を中心に結成されている「キロメートルゼロ友好協会(L’Association des Amis du « Km 0 »)」)は数年間にわたって計画を練り、フランス側にも呼びかけて協力関係を築いてきた。

そして遂に、去年の7月20日、友好協会の努力が実った形で、第一次世界大戦中のドイツ・スイス・フランス3国の軍事配備を学ぶ散歩道が開通した。道や施設の整備には、この地域に接するスイス・フランスの村々の経済的援助やスイス軍工兵隊による土木工事など、数多くの人々が携わっている。

先日、ポラントリュイ市観光ガイド協会が所属ガイドを対象に行う研修小旅行で、ラルジャンを訪れてきた。案内役は、ジュラ地方史の生き字引、元協会長のジャン-クロード・アダット氏である。

氏に先導された私達は、ボンフォル村から国境を超えてフランスのフェットルーズ(Pfetterhouse、ジュラに於けるフランス語読みにて日本語表記)村に入った。それから村外れの駐車場に車を置き、徒歩でラルグ川にかかる橋を渡った。ここから先は、普仏戦争後から第一次世界大戦終了時までドイツ領となっていた。

道路を横切って林の中に入ると、すぐにドイツ軍のコンクリート製トーチカ跡が現れた。

散歩道で最初に現れるドイツ軍陣地の説明板。3ヶ国語で解説され、図解入りで分かりやすい。屋根は戦後、フランスに解体され、鉄骨が別途利用された swissinfo.ch

  ラルジャンはジュラ州ボンフォル(Bonfol)村の北東部に位置し、広大な牧草地の中に農家がぽつんと建っているだけという、いかにもジュラらしい、のどかな場所だ。しかし、第1次世界大戦中、交戦国のフランスとドイツが、国境と定められていたラルグ川(La Largue)を挟んだ塹壕越しに睨み合っていた。

この2国と国境を接するスイス側では、万が一の領内侵攻に備え、大戦勃発とほぼ同時に、ラルジャンに監視哨を建設した。最初はテントのような簡易な造りだったそうだが、戦争が長引き、事態がより深刻化するに連れ、真の軍事施設として形を成していった。

第一次世界大戦当時の、スイスの監視哨の写真。建物は半地下になっている swissinfo.ch

下の地図をご覧いただきたい。「キロメートルゼロ(km0)」と呼ばれる地点から、750kmに及ぶ戦線(塹壕線)が北に延び、北海に面するニーウポールト~オステンデ(Nieuport – Ostende、ベルギー国内)まで続いていた。このとてつもなく長い塹壕線こそ、「西部戦線」である。

小説や映画で何度も描かれた「西部戦線」の起点が中立国スイス、それもジュラ州内の自宅からそう遠くない場所にあったと初めて知り、目から鱗もいいところだった。

西部戦線を挟んで右手「ALSACE ALLEMANDE」はドイツ領アルザス、左手「ALSACE RECONQUISE」はフランス領である。両大国に挟まれたスイス領内の「Km0」地点の危険性に、今更ながら震撼する swissinfo.ch

ラルジャンの周辺には、1914年以降に建設された軍事施設、とりわけ監視哨、機関銃や大砲が設置されていたトーチカ、塹壕跡などが数多く存在する。21世紀の今日(こんにち)まで残存しているのは植物や気候による侵食を受けにくいコンクリート製のトーチカで、ほとんど全て、かつてのドイツ領内にある。

ドイツはコンクリート製の陣地構築に長けていた。戦後、朽ち果ててしまうか簡単に解体された木製のフランス軍施設と違い、ドイツ軍陣地は耐久性に富んでいた。しかし、後年の研究で、フランス軍が木製施設に終始した理由は、「一時的な使用」を最初から目論んでいたためだと判明した。

(フランス側のコンクリート製軍用建築物は、たった1つ。カムフラージュのために「ヴィラ・アガット(Villa Agathe)」と、いかにも邸宅風に呼んだ1918年建造の小要塞が現存する。上記地図を参照のこと)

この戦争でのフランスの最終目的の1つに「領土(アルザス)奪回」があった。よって「ドイツ軍撃退のためには陣地にとどまらず、前進あるのみ」。対するドイツ軍は普仏戦争(1870-1871)勝利で手に入れたアルザス死守のため、長期戦に耐えうる強固な陣地を必要としたのである。

現在、森林が広がるこの周辺も、第一次世界大戦当時は樹木がほとんどない湿地帯だったとアダット氏から聴き、100年でこれだけ木が生えるものかと参加者全員が驚いた。つまり、ドイツ・フランス両軍、そして監視をしていたスイス軍は互いにほぼ丸見えだったことになる。

確かに木々は細いが、ここが100年前に木が殆どない湿地帯だったことは、俄かには信じ難い swissinfo.ch

ここで本格的な戦闘が開始されれば、接近戦は免れない。目の前で血みどろの白兵戦が繰り広げられ、流れ弾が飛んでくるばかりではなく、中立国スイスへの侵攻を許す危険もある。ところが、結論から先に言うと、少なくともラルジャンに於いては、歴史家が知る限りでは、負傷者や病人は出ても、死者は1人たりとも出なかったという。それどころかスイス監視兵は、フランス、ドイツ両国の兵士達と非常に良好な交流を図っていた。

だが、危険と常に隣り合わせだったことは紛れもない。

既に1914年8月2日、スイス国境から3kmと離れていない、フランスのジョンシュレ(Joncherey)村で、国境侵犯して偵察に現れたドイツ将校と、たまたま村に定泊していたフランス下士官が撃ち合いになり、共に死亡するという痛ましい事件が起きていた。22歳と21歳という若さだった。

「この2名は戦死者ではなく、平和な時代最後の死者だった」とアダット氏。その30時間後の8月3日、ドイツはフランスに宣戦布告した。

森の中を進んでいくと、忽然と現れるトーチカ。建設時に小さな樅の木をわざわざ植林してカムフラージュしたそうだ swissinfo.ch

ラルジャン訪問の前日にこの地方が大雨に見舞われていたが、もともと湿地帯だったという割にはぬかるんでいなかった。しかしながら、散策ルートは決して「遊歩道」ではない。

森林内やラルジャンには小枝や大小の石が無数に転がっている上、張り巡らされた塹壕の痕跡などで地面に高低差があったり、潅木を両手で避けながら進むような道なき道もある。ツアー参加の際には必ず歩きやすい靴を履き、多少汚れても良い服装で来るよう、お勧めする。

(後編に続く)

マルキ明子

上記の戦跡訪問ツアー参加ご希望の方はジュラ観光局にご連絡下さい。

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プロフィール:マルキ明子

大阪生まれ。イギリス語学留学を経て1993年よりスイス・ジュラ州ポラントリュイ市に在住。スイス人の夫と二人の娘の、四人家族。ポラントリュイガイド協会所属。2003年以降、「ラ・ヴィ・アン・ローズ」など、ジュラを舞台にした小説三作を発表し、執筆活動を始める。趣味は読書、音楽鑑賞。

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