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ベトナム戦争 スイス外交史の汚点

スイスはベトナム戦争中、戦闘機や爆弾の起爆装置をアメリカ軍に輸出していた。

スイス政府は、特に爆弾の起爆装置に使用される時計部品の輸出に関しては、その事実を隠しアメリカとの経済関係を優先させた。こうした中立という国策の下に行われた「臆病な外交」に、スイスの若い歴史家ダビッド・ロッシャ氏は光を当て、歴史書『ベトナム戦争におけるスイスの企業と政府、1960~1975』を出版した。

swissinfo : ベトナム戦争の間、スイスは外交の舞台で積極的だったとは言いがたいようですが。

ロッシャ : 積極的ではなく、極端に用心深い態度を取りました。一度も平和への呼びかけをしたことがありません。中立の立場を取りながらも平和を訴えることは可能だったと思いますが。

例えばスイス政府からも、ソンミ村で武装していない村民を虐殺したアメリカを糾弾するコミュニケを発表することはできたと思います。

しかしスイス政府は完全に口を閉ざしていました。最初の平和交渉をスイスで開催する機会がありましたが、道具として使われることを恐れ意志を表明しませんでした。そのためパリで交渉が始まりました。

swissinfo : その臆病さはどこから来ているのでしょうか。

ロッシャ : 1つは、スイスの伝統である中立の概念から来ており、1つはアメリカとの経済的、政治的関係が損なわれるのを恐れてのことだったと思います。

swissinfo : 中立を擁護する政治的態度にはどういう利点がありますか。

ロッシャ : 中立はスイスの外交政策の1つの手段です。それはスイスに有効に働くこともあります。例えばほかの国と距離を置く場合などは。しかし、時に中立が外交関係を麻痺させ、経済を優先させるように働きます。

swissinfo : ベトナム戦争で、スイスはアメリカを援助したという結論を引き出されているようですが。

ロッシャ : 爆弾の起爆装置に適した、時計の部品である小型の歯車と歯車伝動装置の9割を、スイスはアメリカ軍に供給していました。

アメリカ側は、戦争開始直後に、ある種の特殊技術はスイスにしかないと気づき、その後スイスに頼るようになりました。戦争の真っ最中に、アメリカ政府の高官がスイスの時計工場を訪れ、生産力を上げるよう要請したのです。戦争中、こうした部品の輸出は10倍に膨れ上がりました。

swissinfo : 戦争の武器になる部品が自由に輸出できたのですか。

ロッシャ : できたのです。というのも、部品は解体され、カムフラージュされ輸出されたからです。また隠蔽 ( いんぺい ) された輸出が問題になり始めるや、時計そのものの形で輸出しました。後でいかに解体して使うかの説明をつけて渡しました。

スイス政府はこの輸出を支持するためあらゆる手段を使いました。忘れてはならないのは、当時アメリカはスイス時計産業の大切なお客様だったのです。

swissinfo : それはスイス国民に知られてはならないことだった。

ロッシャ : ベトナム戦争はほかの国と同様に、スイスでも多く報道されました。政府は ( 戦争に反対する ) 国民の意見と、こうした輸出を支持する政策との間でかなりのプレッシャーを感じていたと思います。メディアで報道されるのを恐れていたと思います。さらに、ちょうど1972年は、武器輸出に反対する国民からの発議 ( イニシアチブ ) に対する国民投票が行われた年でした。

1969年、チューリヒの日刊紙「ターゲス・アンツァイガー ( Tages Anzeiger ) 」が時計部品の輸出に興味を持った時、編集長は政府から呼び出されました。彼はこの輸出を扱うことがあまりにもデリケートだという事実に驚き、結局記事の発表を断念しました。

swissinfo : スイスの戦闘機、「ピラトゥス ( Pilatus ) 」もベトナムに輸出されていました。

ロッシャ : その通りです。当時ピラトゥスを操縦していたベテランパイロットが、インターネット上でコメントを書いていますが、ピラトゥスはナパーム爆弾、ロケット弾などを落下されるのに使われたようです。

スイス政府は輸出を批判され、戦闘機はアメリカのライセンスで製造されていると言い訳し、スイスの法律の規制から逃れました。

swissinfo : 経済が絶えず優先していたということですか。

ロッシャ : もちろん政府は経済を擁護していました。例えば開発援助といっても人道援助の観点からだけ行われていたわけではありませんから。しかし、ベトナム戦争に関しては、経済だけが優先されていたわけではありません。

政治的意図が背後にあったと思います。スイスは、共産主義の北ベトナムを初めに承認した西欧諸国の一員でしたから。

swissinfo : ベトナム戦争に関しては、第2次大戦で取っていた政策とあまり変わらなかったということですか。

ロッシャ : 確かに類似点があります。第2次大戦後、スイスのマックス・プティピエール外務大臣は他国との協調を外交の柱にしました。こうした観点からすると、ベトナム戦争は失敗だったと思います。歴史からあまり学ばなかったということでしょう。

しかし、今日スイスが取る中立政策からすれば、もし再びソンミ村虐殺事件のような大虐殺が起こっても、それを糾弾しないことはあり得ないと思います。

聞き手 ジャンマリ・ペロー、La liberté / swissinfo.ch
( 仏語からの翻訳、里信邦子 ) 

1954年7月、ディエンビエンフーの戦いでフランス側が敗北し、ベトナムの独立戦争終結。フランスのエヴィアン ( Evian ) で協定が結ばれ、北緯17度線で南北に分断された。

1956年4月、最後のフランス軍部隊が撤退し、南ベトナムはアメリカ軍の保護下に置かれる。

1960年12月、共産主義の「南ベトナム解放民族戦線 ( 別名ベトコン ) 」が結成される。

1964年8月、トンキン湾での事件を口実に、アメリカ軍は初めて北ベトナムを空爆した。

1965年3月、アメリカ軍の本格的な北ベトナム爆撃開始。

1968年2月、テト攻撃。20万人以上の北ベトナムの解放戦線兵士が南ベトナムの都市を攻撃。アメリカ軍は大打撃を受ける。およそ50万人のアメリカ兵がベトナムに駐在していた。

3月、アメリカ軍はソンミ村の住民504人を虐殺 ( ソンミ村虐殺事件 )

1973年1月、南北ベトナム政府、臨時革命政府、アメリカの4者がパリで和平協定を結ぶ。アメリカ軍の退去始まる。

1975年4月、北ベトナム軍がサイゴンを陥落させる。ベトナム戦争終結。

1976年4月、南ベトナム消滅による南北統一。ベトナム社会主義共和国に改名。

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