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パウル・クレーと彼の生きた時代

第一次世界大戦開戦直後、1914年にクレーが描いた「戦場」 ZKP/Schenkung Livia Klee

パウル・クレーはその生涯の多くの時間をドイツで過ごした。ここで彼は美術学校に通い、芸術家として認められ、教鞭も取った。

時代はこの間に、第一次世界大戦、プロイセンの第2次帝国、揺れ動くワイマール共和国、欧州全土で影響を拡大した社会主義の波、ナチスの台頭、と移ろい変わっていった。

クレーは近代的な人間であり、芸術家だった。前衛的なグループに属していたが、一般の人々とつながるだけの器もあった。しかし、皮肉なことに、当時彼の作品に感動したのは一定のエリート層だった。

第一次世界大戦

 「この戦争について私はずっと長い間考察してきた。だから実際戦争が始まっても、私個人に対しての影響はない」とクレーは日記に書いている。

 1914年8月に第一次世界大戦の戦火の火ぶたが切られると、彼は戦争をテーマにした12の作品を制作している。しかし彼独自の抽象的な表現主義のおかげで、政治的芸術家というレッテルは貼られなかった。しかし、美術史専門のロザリーナ・バティソン女史によると、だからといってクレーが政治に無関心だというわけではなかったらしい。「彼は政治に興味がありましたが、自分の芸術が戦争と結びついてしまうことを嫌いました」とバティソン女史は語る。

 他の多くのリベラル派と同じく、クレーもこの戦争はドイツの勝利ですぐに終わると高をくくっていた。しかしすぐにそれが幻想であるということを思い知らされる。クレーは戦時体制の中、1916年に備蓄連隊に動員され、その後ゲルストホーフェンの航空学校に送られてしまう。

 しかし戦時中も彼は絵筆を離さずに済んだ。後に分かったことだが、ドイツ人である彼の父が、息子が前線に送られないよう裏で画策したおかげだった。「クレーはラッキーでした」とバティソン女史は話す。

社会主義

 バティソン女史によると、クレーは普遍的な正義の原則を信じてはいたが、イデオロギーに支えられた1つのシステムには多少懐疑的だった。「もし社会主義になって、本当に各個人が自分に合った環境で暮らすことができるなら、私は社会主義者といえるだろう。でも、私はそんな事は不可能じゃないかという疑いをどうしても捨てきれない」とクレーは未来の妻リリーに書き送っている。

 彼の妻リリーは、ミュンヘンに亡命してきたロシア人アナーキストとの交流によって、ブルジョワ生活から距離を置き始めていた。クレーもミュンヘン共産主義共和国(1918年11月から1919年5月まで存在した)が倒壊する1ヶ月前に、共和国の「芸術家の革命行動委員会」に参加する。ここで「私の作品、私の力、私の芸術的知識を全て捧げます!」と彼は宣言している。

 この時の経験が、1920年にワイマールのバウハウスで教授職を得る助けとなった。この時までにはヴィルヘルム二世が退位し、国民主権を掲げたワイマール共和国が成立しており、ワイマールはその中心だった。

 しかし、恵まれた生活もつかの間、クレーとバウハウスの経営陣との間に確執が生まれ、最終的にバウハウスを去ってデュッセルドルフの美術アカデミーに移ることになる。1931年のことであった。

ナチスの台頭

 1933年1月20日、ナチスが完全に権力を掌握し、ワイマール共和国は終わりを告げる。この時、クレーは妻に以下のような手紙を送っている。「私は金輪際『何かが成し遂げられた』というようなことは一切信じない。人間は、実際とんでもなく無能で、とんでもなく愚かだ」

 それでもまだ、国際的に有名で、キャリアの絶頂にあったこの芸術家は、次に何が起きるか予想だにしなかった。ある日全く突然に、美術アカデミーの教授職を解任されたクレーは12月23日、逃げるようにベルンに帰ってきた。

 1937年、ナチス政権は「退廃芸術」として700点もの現代美術作品を展示し、この中に17点ものクレーの作品が入っていた。これにより、彼の作品はドイツ中のギャラリーから取り外された。

 クレーの晩年までの数年間はナチスや病気のために苦難の連続であった。しかし彼は自分の人生に起きた困難に対して、何とか一定の距離を置き、芸術活動を続けていた。けれどもスイスという国も決してクレーを優しく迎えることはなかった。

 バティソン女史は指摘する「彼は3つの意味でスイスでも偏見にさらされていました。1つ目は共産党ボリシェビキの活動家として、2つ目はドイツ人として、3つ目は左翼インテリとして。でも、実際これのどれも、本当には正しくはなかったのです」。


swissinfo イザベル・アイヒェンベルガー 遊佐弘美(ゆさひろみ)意訳

パウル・クレー略歴

1879年12月18日、ベルン郊外のミュンヘンブッフゼーで生まれる。
1889年、ドイツのミュンヘンの美術学校に入学。
1906年、ピアニストのリリー・シュトゥムフと結婚。
1907年、息子のフェリックス誕生。
1916年、ドイツ軍に徴兵される。
1920年、ワイマールのバウハウスで教鞭をとる。
1931年、デュッセルドルフの美術アカデミーに移る。
1933年、ナチスに追われて祖国スイスに帰郷。
1940年6月29日、皮膚硬化症で死去。享年61歳。

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