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ホドラーの風景画がチューリヒへ

ホドラー作の「ライシンゲンから見たトゥーン湖」(1904年作、ベルン美術館所蔵)ホドラー・スペシャルで写真と比べてみよう!

巨匠、フェルディナンド・ホドラー(1853-1918)は日本人には馴染みは薄いが、スイスではジャコメッティに匹敵するほど有名な国民画家。このたび、チューリヒの市立美術館でホドラーが愛したスイスの風景画72点ほどが鑑賞できることになった。

昨年、ホドラー生誕150年祭を記念して開かれたジュネーブ歴史美術館での展示内容と同じで、ホドラーが如何にスイスの風景を抽象化し、自分独自の象徴的な世界を作り上げたかが実感できる。

見直されるホドラーの風景画

 意外なことに、展覧会のキュレイター、トビア・ベゾーラ氏は「ホドラーは風景画を重要だとは考えておらず、注文がなく時間がある時だけ描いた」という。それでも、ホドラーが残した風景画は約700点もあるという。現在はホドラーが重要視していなかった風景画が見直され、国際的な評価が上がっている。2年前にレマン湖を描いた「グラモン」が売りに出された時、420万フラン(約3億6000万円)という高値がついた。

ホドラーの理想の景色

 ベゾーラ氏は「ホドラーは印象派と違って屋外にキャンバスを持ち出して描いたわけではない」と語る。彼は多数のスケッチをした後、アトリエで記憶と想像からキャンバスに風景画を描いた。「ホドラーは山や雲をアトリエのモデルのように変形させた」という。だから、山はキャンバスの中心に三角形に置かれ、雲や湖は楕円形に自由に変身する。べゾーラ氏は「例えば、ある湖のほとりはワイン畑ばかりなのに、絵ではワイン畑が見られない」と指摘する。画家は「風景画はこうあるべき」という概念が先にあり、自分の理想に合った風景を探していたように見える。

 ホドラーは大学で地質学や鉱物学を勉強した。「そうした科学的な知識を基礎に風景画を描いたためとてもユニークなアプローチに発展した」とべゾーラ氏。ジュネーブ歴史美術館の学芸員のポール・ラング氏は「注文で描いた歴史画や肖像画に比べると全く自由に実験的な絵を書くことが出来た」と説明する。また、画家はよく、何年も後に全く同じ場所にスケッチに行き、違った光、色の下の自然を描いたという。

ホドラーの国際的地位

 ラング氏は「風景画のおかげでホドラーは生前と同じような国際的な評価を取り戻している」という。ホドラーが生きていた時代、旅行に来たイギリス人やドイツ人が多くの風景画を買った。しかし、世界大戦の際、ドイツに敵対し、フランス側につくように公言したため、ドイツ美術館から姿を消すことに。べゾーラ氏は「ドイツは彼を許すことができなかった。もし、この事件がなかったら彼の評価も違ったものになっていたはずだ」という。現在では彼の作品のユニーク性などから、同時代のムンクと比較されることが多い。


スイス国際放送、アルマンド・モンベリ、屋山明乃(ややまあけの)

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スイスインフォのホドラー・スペシャルをクリックするとスイスの巨匠、世紀末芸術家フェルディナンド・ホドラーの風景画と現代の景色を比較できる!

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補足情報

ホドラーの略歴:
1853年 ベルンで木工職人(指物師)6人兄弟の長男として生まれる。
1860年 兄弟が結核で死んだ後、父親も肺結核で死去。
1861年 母親が家具職人シューバックと再婚。
1865年 義理の父、シューバックのアトリエを手伝う。(12歳)
1867年 母親が結核で他界。
1871年 18歳で家を飛び出しジュネーブへ。
1891年 「夜」を発表。ジュネーブ市長にサロンへの提示を断られる。その隣に開いたサロンが評判を呼び有名になる。パリのシャン・ド・マルス・サロンでも成功を収める。
1900年 「昼、夜、調和」がパリの万博で金メダルを獲得。ウィーンとベルリンの分離派のメンバーになる。
1904年 ウィーン、分離派の展覧会に名誉招待される。
1913年 ヴァランティーヌとの間にポーリンヌが生まれる。
1915年 ヴァランティーヌが癌で死去。病床のヴァランティーヌシリーズを描く。
1918年 ホドラーがジュネーブ市の名誉市民に。窓から見えるモンブランとレマン湖のシリーズを描く。5月19日病気で死去。享年65歳。

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