マイナス50度の氷の世界 スイス人エンジニアを待ち受ける南極の長い冬

南極の短い夏が終わりを告げると、また長い冬がやってくる。マイナス50度になることもある過酷な寒さの中で、「ノイマイヤーⅢ南極基地」の隊員が問題なく研究を進められる環境を整える。それがトーマス・シェンクさんの任務だ。

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1日中太陽が昇らない極夜の闇の中、地球上で最も寒い場所で孤独と闘いながら1年を過ごす。たとえ全てを投げ出したくなっても、どこにも逃げ場がない状態で――。スイス人エンジニア、トーマス・シェンクさんが南極で臨むチャレンジだ。
南極の研究施設「ノイマイヤーⅢ基地」での任務がスタートしたのは昨年末。「氷の砂漠」で人と物資が無事に越冬できるよう、様々な設備の管理を担当する。
ビデオ通話で繋がったシェンクさんは、基地の倉庫にいた。「今ちょうど忙しい時期で、オフィスは研究員で満員です。静かな場所を見つけるのに苦労しました」。夏季(11月下旬~3月上旬)は大所帯で、50人超の隊員がここで生活を共にする。それが過ぎれば、少なくともスペース的には楽になる。これから始まる冬の8カ月間、基地に残って任務を遂行するのはシェンクさんを含む隊員9人だけになるからだ。
南極大陸には主要な観測基地が約30カ所あり、夏季に約5000人、冬季に約1000人の研究者らが訪れる。面積は1400万km2で日本37個分の広さに相当し、欧州やオーストラリアよりも広い。南極大陸は全て氷に覆われている。「氷床」と呼ばれるこの氷の厚さは何千メートルにも及び、平均で2000 m。全ての氷が解けた場合、海面は推定60 m近く上昇すると言われている。
南極は世界で最も気温が低い場所だが、地域差も大きい。一番寒い場所は南極大陸の中央部で、2018年にはマイナス97.8度という史上最低気温が観測された。ノイマイヤー基地がある場所では夏の最高気温が0度まで上昇するものの、冬はマイナス50度まで下がる日々が続く。嵐が数週間続くことも珍しくない。
ここ2年で大容量のインターネットが可能になり、南極からでもビデオ通話ができるようになった。通信にはイーロン・マスク氏のスペースXが手掛ける衛星通信サービス「スターリンク」を使う。「他の衛星や無線を介した手段もあるので、通信は問題ありません」(シェンクさん)
とはいえ、基地は1年のうち約9カ月は物理的に外界から隔離される。冬の間、人の往来はストップする。海水が凍りつき、厳しい気象条件が飛行機の発着を阻むためだ。2月末頃に最後の船が港を離れ、飛行機の最終便が飛び去ると、再び夏が来るまで観測隊員は南極に孤立する。最長20時間かけて雪上車を走らせれば次の基地にたどり着けるが、マイナス30度~40度のブリザードが吹き荒れる中、こうした移動は事実上不可能だ。
シェンクさんは「いつもそれを肝に銘じています」と話す。夏の間は忙殺され、自分が置かれた環境を忘れがちだが、南極の冬が始まる3月初旬からは状況が一変する。シェンクさんの言う「長い暗闇」が始まるのだ。
マイナス50度で8カ月続く冬
夏の間、観測隊員はデータ収集や実験を行い、そのうち4人は冬の間も研究を続行する。沿岸部にあるノイマイヤー基地は、南極大陸の中でも特に辺鄙(へんぴ)な場所にある。ドイツのアルフレッド・ウェゲナー極地海洋研究所が運営する3番目の研究施設で、極地における海洋研究や、内陸部へ出発する探検隊の拠点としての役割を果たす。
基地はウェッデル海沿岸付近の「エクストローム棚氷(たなごおり)」上にある。棚氷とは、沿岸部で海にせり出した氷床を指す。海に向かってゆっくりと滑り落ちているため、基地がある棚氷はやがて割れ、氷山になると考えられている。板状のプラットフォーム上にそびえ立つ基地を地下から支えるのは、16本の油圧支柱だ。建造物の安定を保ちつつ、雪に埋もれないよう、積雪量に応じ建物の高さを1 mまで調節できる。同基地は2035年までは運用が決定している。
プラントエンジニアのシェンクさんの任務は、技術責任者として冬の間も設備が問題なく機能するようメンテナンスを行うことだ。雪上車からサニタリー施設、雪と氷で飲料水を作る機械に至るまで、業務は多岐にわたる。「万全の態勢で臨んでいますが、もし越冬中に故障が生じてスペアパーツがない場合、私が知恵を絞らなくてはなりません」
シェンクさんはスイス北西部のベルン州にある牧歌的な自治区、マディスヴィルで生まれ育った。建設機械工の見習いを終えた後、スイス軍で将校を務めた。その後は専門学校に進み機械工学を学び、様々な職業訓練を受けてスキルアップを続けた。外国での長期滞在歴も豊富で、プライベートでモロッコからガンビアまで自転車で旅をしたことや、仕事でノルウェーのトンネル建設に携わったことがある。
ノイマイヤー基地を運営するアルフレッド・ウェゲナー極地海洋研究所外部リンクは、基地が置かれた環境を「過酷な寒さ、猛烈な嵐、そして延々と続く極夜」と表現する。なぜこのように過酷な場所で、シェンクさんは1年間過ごしたいと思ったのか?「もちろん、冒険心からです。自分の知識と技術を試すチャンスでもありました。ここでの仕事は、私にとってわくわくするチャレンジです」
南極という人を寄せ付けない環境での長い冬は、確かに退屈かもしれない。だが勤務時間は普通なうえ、週1日の休日にはスポーツをしたり、他の隊員と一緒に過ごしたり、時にはかまくらを作ったりして自由に過ごせるとシェンクさんは言う。ただ「これまでの越冬隊の話では、色々計画を立てても、結局はその半分も実現できないようです。やはり仕事は山積みですから」。
南極大陸は誰のもの?
シェンクさんは今、法的に見れば所有者のいない「無主地」にいることになる。地球の最南端に位置する南極大陸を巡り、国際法で解決できていない問題は多い。1959年に締結された南極条約では、南極大陸を軍事・産業目的に使用することを禁じ、研究の自由を保証した。この条約により、南極地域における領土権主張は凍結された。例えばノイマイヤー基地がある地域は、ノルウェーが領有権を主張している。
シェンクさんは、基地の物流とメンテナンスを担当するドイツの海運会社F.ライスの社員として南極に赴任した。ではシェンクさんは「在外スイス人」なのか?色々な当局に問い合わせたものの、どこも明確な答えを得られなかったそうだ。そのため今もスイスに住民票があり、ノルウェーが領有権を主張する南極にある、ドイツの研究施設で、ドイツ企業の社員として働いているという。南極は実に複雑だ。

この地球のどこかで何か一大事が発生した場合、それを真っ先に知る1人が、恐らく地の果てにいるシェンクさんだ。ノイマイヤー基地には地震計と低周波音測定器が設置されているため、どこかで核爆弾が爆発したり、大地震が発生したりすれば、基地の観測隊員はすぐに異変を察知する。そして南極は、恐らく世界で最も安全な場所とも言えるだろう。
編集:Benjamin von Wyl、独語からの翻訳:シュミット一恵、校正:大野瑠衣子

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