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10年前、やっと国連加盟したスイス

2000年3月6日、国連加盟のイニシアチブを推進した団体は、国民投票に必要な署名を集め終え提出した Keystone

10年前の3月3日、スイス国民は国際連合(国連/UN)加盟を承認した。これは、1945年以来半世紀以上にわたる躊躇(ちゅうちょ)の末の決断だった。

それは、神話化されていたスイスの「絶対中立」が国連加盟によって侵されるのではないかという恐れに起因していた。

 「スイス人がついにやってきた。我々は彼らを長年待ち続けた」。10年前、当時のコフィ・アナン国連事務総長は、スイスの代表団を迎え入れながらこう演説した。

 半世紀以上の間、スイスの態度はほかの国々に理解され難いものだった。第2次世界大戦前に国際連盟には加盟し活発な活動を展開。さらに戦後多くの国連機関をジュネーブに受け入れているこの国がなぜ国連に加盟しなかったのだろうか?

 このスイスのパラドックスを理解するには、1945年6月26日にさかのぼる必要がある。この日、サンフランシスコでは国連憲章に51カ国が調印し、国連に加盟した。しかしスイスは調印しなかった。国際連盟への失望と新しく誕生した国連が、戦勝大国によるある種の「クラブ」に映ったからだ。当時スイスでは「まず大国にやらせておこう。そのうち参加するかどうかを決めればよい」という考えが大半を占めていた。

スイスの中立の形

 だが、国連加盟を拒否した主な理由は、実はスイスの「中立」という概念に関係している。1920年国際連盟に加盟したスイスは、当時「スイス国家は政治的に中立の立場を貫くが、他国への経済制裁には参加する」という形の中立を選択した。ところが、1938年、第2次世界大戦の脅威の中、スイス政府は「絶対中立」へと後戻りした。

 「絶対中立という概念は、第2次世界大戦中及び戦後にわたってさらに神話化されていった。この中立が一つの要因となり、スイスは大戦に巻き込まれずに済んだと人々は考えている、ないしは考えるふりをした。この神話は国内においてはプロパガンダとして機能し、諸外国に対してはスイスを攻撃させないようにするものだった」と、歴史家カルロ・モース氏は語る。

第1回目の国連加盟は否決

 スイスの中立の概念は冷戦時代の始まりから数年を経て、再び持ち上げられた。「しかし、この時代でさえ中立は一つのフィクションに過ぎなかった。当時、スイスは西欧世界のブロックの中にしっかりと根を張り、取り込まれていたからだ」とモース氏は言う。

 ほかの中立国が次々と国連に加盟していく中、国連加盟の考えとは相容れない絶対中立をスイスは育み続け、その結果1986年の国連加盟を求めるイニシアチブ(国民発議)は、反対75%で否決される。

 モース氏はスイスの国連加盟を阻害した一つの原因を次のように分析する。「右派と中産階級が国連、特に国連総会を共産主義国に支配された集会だと考えていた。当時、非植民地主義が進み、新しく独立した国々が東欧のブロックに加わっていったからだ」

パラドックス

 その後1989年のベルリンの壁崩壊により、スイスの「中立」はその重要性を失っていく。だが、それに代わる新しい政治論争が二つ誕生した。一つは世界に開かれたスイス、特に国連や欧州連合(EU)に対し開かれたスイスを支持する派。もう一つは保守的な派だった。

 前者は、中立という「盾」の後ろに隠れることをやめ、他国と協調しながら世界の中でスイスの利益を主張していくことを訴えた。一方後者は、スイスは扉を開く度に中立性が脅かされるばかりか、国としての尊厳や統一性まで失われてきたと弁護した。この後者の保守的な考え方は、スイスで多数派を占めたが、外国からの理解はさらに失われていった。

 「これはスイスのパラドックスだ。スイス人ほど外国に旅行に出かける国民はいない。またこれほどの外国人を抱える国は存在しないし(約22%が外国人)国民1人当たりに対し、これほど国籍の違う外国人が住む国は存在しない」と2002年にドイツの週刊新聞「ディ・ツァイト(Die Zeit)」は書き、驚きを隠さなかった。

正しい選択か?

 しかし、スイス国民は2002年3月3日、ついに一歩を踏み出した。国連加盟を求める第2回目のイニシアチブは、賛成54%で可決された。この背景には、その数年前に出版された歴史家ジャン・フランソワ・ベルジエ氏を中心とした調査「ベルジエ・レポート」があった。この中で、スイスは第2次大戦中少なくとも2万人のユダヤ人の入国を拒否しただけでなく、ユダヤ人を直接ナチスに送還。数百万フランもの資金が銀行に預けられたまま放置されていた事実が明らかにされ、中立への幻想がかなり崩れたからだ。

 この国連加盟から今年で10年がたつ。だが、中立を擁護する姿勢は変わっていないように思える。「この10年を振り返ると、かなり失望する。スイスの中立性はますます失われ、一方国連に加盟したにもかかわらず、世界の中でスイスの立場は改善されていない。例えば、アメリカや欧州連合(EU)はスイスを金融面で攻撃し続け、また銀行の守秘主義も脅かされている」と1986年の第1回目の国連加盟を問う国民投票後に誕生した右派の協会「スイスの中立と独立のためのアクション(ASIN)」の会長、ヴェルナー・ガルテンマン氏は言う。

 だが、連邦外務省 ( EDA/DFAE )のペーター・マウラー外務長官は、スイスは危機一髪で危い状況を回避したのだと振り返る。「国連加盟によって(スイス国民の)世界に開かれることへの恐怖は解消された。2002年にスイスは、スイスの歴史上、非常に危機的な時期に正しい選択をしたのだ。それは、スイスに対する他国からの許容が失われつつある時期だった」

国連(UN)ヨーロッパ本部、及び七つの国連機関がスイスのジュネーブにある。このため国連機関と交渉を行う各国の交渉団を抱える242の代表部が、やはりジュネーブにある。

およそ1500人のスイス人が国連で働き、うち70人が高官のポストについている。

国連加盟国としてスイスは、1億3000万~1億4000万フランを国連に支払っている。この分担金の額で、スイスは16位を占める。

その他の国連機関への自発的拠出金は5億フランに上る。これは国連に加盟する前から支払われていた。

1920年、58カ国が参加し国際連盟が創設。スイス国民は、賛成56.3%で国際連盟への加盟を可決。

1945年、サンフランシスコでは国連憲章に51カ国が調印し、国連が創設される。

1946年、第1回国連総会がロンドンで開催される。

1948年、スイスは国連のオブザーバーの地位を得る。

1986年、国連加盟を求めるイニシアチブ(国民発議)は、反対75%で否決される。

1994年、スイス兵からなる国連派遣軍の創設を認めるか否かを問う国民投票は、反対57.2%で否決された。

1998年、国連加盟を求める新たなイニシアチブが署名集めを開始。

2002年3月3日、スイス国民はこのイニシアチブを可決。同年9月10日、スイスは190番目の国連加盟国となった。

(仏語からの翻訳・編集 里信邦子)

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