20世紀最後のフランスの巨匠、バルテュスを支えた節子夫人
ポーランド系仏人画家バルテュスは20世紀最後の具象画家と呼ばれ、また愛妻家としても知られていた。その妻、クロソウスキー・ド・ローラ伯爵夫人として夫に人生を奉げた純大和撫子、節子夫人がスイスに住んでいる。ヴォー州のロッシニエールのグランシャレで今は亡き、画伯の遺志を継ぎ、バルテュス財団の活動を軌道に乗せた。彼女自らも画家として活躍し、世界中を駆け廻っている。
「私はバルテュスに誘拐されたようなものです」と語る節子夫人が画家に初めて出会ったのは20歳の時。1960年代、当時仏文化大臣、作家でもあるアンドレ・マルローの頼みで来日したバルテュスは50代。大学生だった出田節子さんは京都のお寺の国宝級の美術品が見られると聞いて仏使節団の見学に参加した。そこで、画家の目に留まりモデルを頼まれる。知り合った当時、「社会問題など激しく議論致しました」と語る夫人は凛としていて、内に情熱を秘めている。
しかし、次第に画家の考え方に惹かれ、一生を託してもいいと思うようになった。節子夫人が自ら絵を描くようになったのも彼の影響だ。バルテュスが本当の自分をみつける手助けをしてくれた。「彼の絵のように私も彼によって造られました」。『源氏物語』と『徒然草』が愛読書だったという画家は日本への造詣が深く、まるで日本人の夫といるようだった。逆に日本への認識も彼のお陰で深まった。美しく着こなす着物もバルテュスが好きだったから。画家自身も浴衣を愛用していた。
夫妻がスイスに住むきっかけとなったのはバルテュスがモロッコ時代に患ったマラリアだ。「スイスの山なら発病しない」という医者の助言でヴォー州で一夏を過ごしたのは25年前。立ち寄ってお茶を飲んだホテルが現在住んでいる古い木造建築、グランシャレだった。木のきしむ音、屋根の傾斜などが日本の合掌造りの住まいを思い浮かばせ、二人とも感嘆した。それが、丁度売りに出ていた。2度目の運命的出会いだ。
グランシャレの向かいにはバルテュスの聖域だったアトリエがある。晩年は節子夫人が手となり足となり、助手業に徹底した。画家は亡くなる直前、どうしてもアトリエに行きたがった。アトリエで右手を夫人、左手を愛娘晴美さんが握り、無言で過ごした最後の時間が最も美しい想い出だ。バルテュスとの繋がりは宿命的なものだったと語る夫人は気品があり、清らかでバルテュスの作品を見るようだった。
スイス国際放送 聞き手 屋山明乃(ややまあけの)
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