スイスの国家的モットーはどこから来たのか

ヴィンケルリートほど「一人は皆のために、皆は一人のために」というモットーをよく体現している人物はいない。この伝説上の人物は19世紀、画家のコンラート・グロープによって絵画の中に残された Musée national suisse

「一人は皆のために、皆は一人のために」は政治的なモットーだ。新型コロナウイルス危機下で新しい重要性を得たこの成句がスイスで広まったのは19世紀。自然災害が頻繁に発生した頃だった。だが、その根源は16世紀までさかのぼる。

このコンテンツは 2020/06/02 08:00
Erika Hebeisen, スイス国立博物館

辛らつな政権批判で知られる週刊紙WOZは、政府の新型コロナウイルス対策について「Unus pro omnibus, omnes pro uno(一人は皆のために、皆は一人のために)」で始まる社説を載せた。この国家的モットーはそれほどまでに、現在スイスが行っている危機回避の努力を的確に表現しているようだ。では、このモットーはいったいどこから来たのか。

1874年のスイス連邦憲法改正を記念したリトグラフ Musée national suisse

この標語を使えば、スイス国民に連帯感をもたらせる。政治家がそう考えるのも無理はない。「一人は皆のために、皆は一人のために」というモットーは、この国の集団的な記憶の中に深く刻み込まれているからだ。今この成句を再び流行らせたのは、おそらくスイス政府そのものだろう。コロナ危機が高まりを見せる中、アラン・ベルセ内相はこの成句を引用して、「外出しないでください。体の弱い人々を守り、私たちの公共体を惨劇から防ぎましょう」と、何度もスイス国民に連帯を呼びかけた。

「一人は皆のために、皆は一人のために」という成句がスイス国家の自己表現として使われるようになったのは、1848年のスイス連邦成立後のことである。1874年の憲法改正時に制作された美しいリトグラフの中に初めて標語として載せられた。1889年には、コンラート・グロープの絵画「ゼンパッハで戦うヴィンケルリート」の中に記され、この絵は連邦議会議事堂西館の旧上院議会ホールに飾られた。1902年、連邦議会議事堂の丸天井に成句が記されることになり、それ以来、いわばラテン語の国是として政治家たちを見下ろしている。

19世紀後半、まだ若く不安定な連邦国家は、このモットーを使って国家の共同精神を呼び起こそうとした。各州が今まで所有していた主権を連邦に手渡すことこそが皆のためになるのだと、保証する必要があったのだ。そしてまず、リベラルな連邦国家の成立に向けて、何よりカトリック系保守派の連邦国家反対派を納得させなければならなかった。

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気候歴史家のクリスティアン・プフィスターによると、政治に基礎を置くこのモットーはその後、災害時にも連帯の効果を発揮するようになった。例えば1861年にグラールス州で大規模火災が発生したとき、スイス全土で募金活動が行われ多額の寄付金が集まった。その際には生活必需品が届けられたばかりでなく、共同体意識も広くもたらされた。「スイス全州が一つの州のために」とか「全スイス国民が苦しむグラールス州民のために」などといったモットーの下、国家の連帯が強調された。

すべてはヴィンケルリートから 

「一人は皆のために、皆は一人のために」という成句がよく知られるようになったのは19世紀になってからだ。しかし、使われ出したのはもっと早い時期であり、それは死にゆく「ヴィンケルリート」をめぐる想起文化の中で濃縮されていった。ニトヴァルデン出身のこの英雄は、1386年、すでに敗退の色が濃くなっていたゼンパッハの戦いで、自らの命を犠牲にして連邦のために戦った。敵の槍の中に身を投じ、「私が皆の通り道を作ってやろう」と叫びながら突破口を開いた。死に際には「妻と子をよろしく頼む」と戦友につぶやく。この英雄は自分が属する公共体、つまり連邦の安寧のために自分の命を差し出したのだった。それと引き換えに、「一人は皆のために、皆は一人のために」にのっとり、公共体が遺族の面倒を見てくれることを確信していた。

シュタンスにあるヴィンケルリートの記念碑 Musée national suisse

ゼンパッハの英雄が公式の想起文化に現れるまで、それからおよそ100年もの歳月が流れる。そして、彼に「ヴィンケルリート」という名がつけられるのは、それからさらに50年先の1551年、ハンス・ルドルフ・マヌエルがゼンパッハの戦いを絵画にしたときだった。それ以降は、定期的に行われる戦いの記念式典で自らを犠牲にした英雄としてその名が聞かれるようになり、スイス国民の集団的な記憶に刻まれていく。17世紀および18世紀には個性化が進み、アルノルト・フォン・ヴィンケルリートは愛国的な平民戦士として尊ばれた。1723年、シュタンスに噴水像として初めて記念碑が作られ、1750年にはチューリヒの有名画家ヨハン・ハインリヒ・フュスリがこの史実上実存しなかった人物、アルノルト・フォン・ヴィンケルリートのポートレートを描いた。

ヴィンケルリートは、特に二つの作品を通じ、20世紀後半までポピュラーな存在であり続けた。一つは、チューリヒの歴史画家ルートヴィヒ・フォーゲルが1841年に描いた油絵「ヴィンケルリートの遺体を囲む盟約者たち」。もう一つは、1865年にシュタンスで除幕式が行われた、フェルディナント・シュレート作のヴィンケルリート記念碑だ。スイスの学校に通う生徒たちは1970年代に至るまで、壁に貼られた絵や教科書、絵本などを通じて、ヴィンケルリートのメッセージを内面化していった。そのため、現在のコロナ危機で、連邦政府の「一人は皆のために、皆は一人のために」という呼びかけにいち早く応じたのは、とりわけ高リスクとされた65歳以上の人々だったはずである。

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