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VIII 秩父宮殿下の思い出 -8-

スイスを雍仁親王妃勢津子さまと訪れた秩父宮殿下

(swissinfo.ch)

山と殿下

 そして、殿下は、この登山を最後にご病気のため再び登山をなさる機会はなかった。
 ここに殿下追悼の拙文(山岳 第四八年一記載)を記したい。
 秩父宮雍仁親王殿下には昭和二十八年一月四日早暁鵠沼の別邸にて御逝去あらせられた。御齢五十歳といえば決して長命とは申せない御寿命であったが、大正十年の暮にはじめて赤倉の細川邸にお泊りになられスキーを妙高山麓に楽しまれたときから爾後三十余年、山岳に対し深い興味と愛とをお寄せになったことを思えば、殿下の御生涯に山岳の占めた部分は浅いものでなかった。
 殿下が登山をお始めになったときは、少壮陸軍士官として公務御多端の際であった。従って何時も余暇の少ない遽しい時間の御利用に止まり、スキーの場合などは、概ね土曜日の夜行列車にて赤倉又は五色などに向われ、翌朝到着早々そのままスキーを穿いて登山せられ、夕刻に再び山麓の駅から御帰京になって月曜の勤務をなさるという風であった。殿下のスキーは大なり小なり登山を折り込んだ行程であって、狭い練習場に器用な技術を追って過ごされるようなことはお好みでなかった。
 登山の方は、最初は中房から燕を経て槍ヶ岳への行程であった。また五月の立山に登られたこともあった。
 御外遊の際は、大正十四年夏にはスコットランドのベンネヴィスに登られ、その冬はスイスのアレツチ氷河からグリムゼル峠への山旅をなされている。翌年の夏は、アルプスの二大中心ともいうべき、ベルナーオーバーランドおよびヴァリスの巨峰を十余りほとんど御休息の日もないように登っておられる。御帰朝後には穂高、槍ヶ岳、小槍、笠ケ岳への縦走が主なものであって、御健康を害されての後は、再び登山の機会をお持ちになることはなかった。
 其頃の殿下は、力強い身幹と手足とを持った頑丈な御体格であった。青年として驚くべき健脚であり、一度も疲労を訴えられたり困難の前に辞易されるようなことはなかった。まことに男らしい、そしてそれに相応しい活力と、何人をもひき付けずには措かない御気性であった。岩に対しても氷に対しても、また隊員としても優れた技倆と温い協力を惜しまれない、登山者として確かに第一級の方であった。そのため私たち随行者にとっては何時も楽しくまた退屈を感じるようなことはなかった。
 殿下はまた山岳に関する文献の蒐集にも御熱心であり、このことは療養生活に何れ程の御慰安であったろうかと拝察する。晩年、殿下は多方面に御執筆発表になっておられたが、登山に関しての執筆は少なかったように思われる。
 一九二九年の『アルパインジャーナル』に収められたウォルター・ウェストン師と浦松佐美太郎氏の共訳になる殿下御執筆の登山記『日本アルプスの八日』の中に次のお言葉がある。
 「しかし、われわれの短い現世の生命も、永遠の死後の生命も、みな宇宙の外には出ないのだ。そうしてみると、ときには、この広大無辺の大自然に抱かれて、これを静視して、理想そのものである宇宙の神に帰一するの余裕は欲しいものである。登山は、虚栄の表徴である下界の流行とは違う。登山は、われわれが赤裸々になって大自然の前に、幽遠なる理想をたどる崇高な奮闘であり、修養であり、喜悦である。山そのものは久遠の生命であり、大聖哲である。」
 一人の登山者として山岳の前に立たれた殿下は謙虚なお心持で、自分たちを取り巻く世界との交渉に於て、殊に山岳に現われた壮麗な事象の下に、人問としての宿命を諦念せられ、内面的に思索することによって、この事象を超越して静安自由の精神を示されている。
 殿下のわが国スポーツ界に残された御足跡はまことに偉大なものであることは、今更申すまでもないことであるが、殊に長く御自身実行になったのは登山であった。わが日本山岳会名誉会員であらせられたことは、私たちにとって大きな励みであり光栄であった。昨年再び英国山岳会名誉会員に推薦を受けられたことは、殿下の如何に国際的に高い地位を占められておられたかを示すものである。わが登山界のよき指導者、よき友であらせられた殿下の御急逝は悲しみに堪えたい。謹んで哀悼の意を表し奉る。

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