スイス人写真家が見たハイチの結婚式

「スイスの生活は、みんな気にも留めないけれど、とても恵まれている」と語る写真家ベリスヴィルさん ©Thomas Kern/swissinfo.ch
このコンテンツは 2020/06/19 08:30

スイス・フランス語圏の静かな田舎を離れて世界中を旅したあと、ハイチに暮らし始めた写真家のヴァレリー・ベリスヴィルさん。世界の様々な場所をカメラに収めてきた。今では第二の故郷となったハイチの、結婚式をテーマにした写真集の出版を目指して準備を進めている。

「幼いころ、家族でバカンスに行くとマルシェで一つだけプレゼントを買ってもらえました。妹はバービー、弟はミニカーなど。私はと言えば、アフリカの仮面や太鼓だったり…。とにかく異国から来たものが好きだった」と話すベリスヴィルさん。

写真が好きになったのは10歳くらいのころだという。アマチュア写真家の父親は、自宅でネガフィルムを現像していた。「私にも教えてくれました。家の地下の洗濯室で作業をしていたので、母がよくため息をついていました。現像の道具で場所がとられ過ぎて、洗濯できないと言って」と笑いながら当時を振り返る。

10歳から15歳の間は、好きな音楽に合わせて踊りを楽しむ同年代の女の子たちとは違い、ベリスヴィルさんはよく友達を呼んで、撮影会をした。撮影場所は、ヴォー州とフリブール州にまたがるブロワ地方の田園地帯が多かった。ベリスヴィルさんの生まれ故郷だ。

異国の誘い

異国のオブジェに対する興味は、異国を見たいという願望に変わっていった。「自分で思い出せる限り、私は偏見を持ったり未知のものを怖いと思ったりしたことがありません。旅行好きな家族に生まれたわけでもないのに、いつも好奇心があった。人との出会いが好きで、人がどんな暮らしをして、何をして、何を食べているのかを見てみたいし、自分も味わってみたかった」

17歳の時には友達を誘ってブルガリアに行った。「他の友達からは『変なの!なんでそんなとこに行くの?そもそもどこなの?』と言われましたが」。文書・資料保管員の見習い職業訓練を終えてからはペルーへ。「たまたま決めました。当時、ペルー人の叔母がそこに住んでいたこともあって、スペイン語は全くダメ、英語もあまり話せないのになんとなく行ってみたのです」

旅は5カ月間続いた。バックパックを背負い、快適さの心配も、この種の低予算の旅には付き物の苦労もほとんど感じることなく、南アメリカ大陸のあちこちを訪れた。そして撮りためた40本のフィルムとともに帰国し、現像した。

初めての写真展、初めての結婚式

「まだ南米にいる間に、私の実家のある村のサントーバンに手紙を書き、村のお城で写真展を開かないかと持ち掛けた」というベリスヴィルさん。フィルムに何が写っているかまだ見てもいないのに、なんとも大胆な話だ。でもそれがベリスヴィルさん。自発的で楽観的、そしてとても度量が大きいのだ。

「写真展を開くのが楽しくなり、いろんな土地で、カフェや図書館などいろんな場所で写真展を開催しました」

ローザンヌの高校の図書館で働くかたわら、地元紙のためにカメラマンとして地域のイベントを取材するようになった。結婚式の撮影をする機会も訪れた。

「結婚式の撮影は、さえない仕事なんかではありません。他人の私生活に入れてもらえるのです。それは素晴らしい信頼の証し。式の前の撮影を好まない人もいますが、私は準備をしている時間が一番印象的な写真を撮れる機会だと思っています。みんなごく自然に振る舞っていて、細かいディテールがあって、すごく貴重な時間です」

パリからポルトープランスへ

2011年、26歳のベリスヴィルさんはプロになる決意をする。資格取得のためにパリに移り、フォトジャーナリストコースで「物語を紡ぐ術(すべ)を学んだ」という。そして、イスラム教徒に改宗したフランス人女性を取材した作品で、雑誌「パリ・マッチ」の主催する学生フォトルポルタージュコンクールのグランプリを受賞した。

そして再び旅に出た。アルバニア、中央アジア、南部アフリカに続き北アフリカを訪れた。2015年、ベリスヴィルさんはドミニカ共和国にいた。そこでの出会いがきっかけで、国境を超えてハイチ側に渡った。

予期せずしてハイチで生活することになり、今はスイスには夏の数カ月間だけ戻る。風景も環境もガラッと変わる。「時々、自分が精神分裂病にでもなったかのような気がする。二つの国は両極端に違うから」。ブロワに住む妹の快適なアパートに身を寄せながら、ベリスヴィルさんはそう言う。「スイスの生活のぜいたくさ、裕福さを見ていると…。学校に行けたり、そこに行くための道があったり、きちんと機能する病院があったり、そのおかげで新型コロナウイルスの感染危機をどうにか乗り切れたりしていること。みんな気にも留めないけれど、それはとても恵まれたことなのです」

「ハイチでは1日中家にこもっているわけにはいかない。夕食の食べ物を得るためには、朝仕事に出かけ、お金を稼ぐ必要があるからです。多くの人には全く貯蓄がなく、インフォーマル経済の中で暮らしています。ましてや隔離なんて考えられません」

本国送還

今年の帰国が早まったのは、新型コロナの感染拡大の影響だった。ベリスヴィルさん自身は首都ポルトープランスに留まり、現地で起こっていることを目で確かめたいと考えていたが、家族に強く反対され、本国送還に同意した。

生き方の選び方、仕事や作品の方向性を見ると、ベリスヴィルさんは確かにある種の活動家だ。だがその取組みは社会的なもので、政治に足を踏み入れることはほぼない。「フォトジャーナリストであることは、ある意味恵まれている。証人として、大きな物語の中の小さな物語を語ることができるから。いつも全てのルポルタージュが素晴らしいわけではないけれど、いつかはそれが、後に続く人への記録になる」

今ではハイチが第2の故郷となり、現地の言葉も話せるようになった。白人であることについては?「確かに、いつも楽なわけではありません。たいていの場合はうまく行っていますが、ハイチが背負ってきた歴史的な重荷や、現地で国際支援団体による被害があったことを考えると、時に白人や外国人に対する不満をぶつけられることはもちろんある。でもそんな時は、クレオル語でジョークを言ったりするだけで、すぐに場が和みます。世界中で黒人の人たちが受けている扱いに比べたら、大したことではありません。今現在起こっているBLM(Black Lives Matter)運動を見れば分かるように」。ベリスヴィルさんはそう答えた。

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