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ナチスに協力したスイス人義勇兵

そりを押す戦争捕虜の姿

ソ連に抑留された約350万人のドイツ人戦争捕虜の中には、ナチスに協力して戦った数多くのスイス人義勇兵がいた。

ザンクトガレンの歴史民俗博物館で現在公開中の「寒さ、飢え、ホームシック―ソ連捕虜収容所1941~56年」展では、長い間忘れ去られていたスイス史の一幕を個人の回想録と遺品を通して浮き彫りにする。

若いスイス人義勇兵

 今回の展示を担当したキュレーターのナタリー・ツェルヴェガー氏は義勇兵の数について
「2000人以上のスイス人義勇兵がナチス側に立って戦いましたが、そのうちの何人が捕虜になったかは不明です」
 と語る。

 当時、ドイツ国防軍に入隊するにはドイツ人であることが何よりも重要視され、展示が明かすように、多くのスイス人義勇兵が二重国籍者だった。そのほか、ナチス党内のエリート兵団である「ナチス親衛隊 ( SS ) 」の防衛部隊、特に第6山岳部隊に加わる者もいた。スイス人義勇兵は17歳から27歳までの青年たちで、ほとんどがスイスドイツ語圏のベルンやチューリヒの出身で、さまざまな社会階級から集まった。

 ところで、義勇兵全員がナチスに好意を抱いていたわけではない。ボルシェヴィキに対する戦いを志した者もいれば、職や新しいことを求めて志願した者もいた。中には、ややこしい人間関係から逃れたいだけの者もいた。しかし、中立の立場を取るスイスでは、この義勇兵が取った行動は違法行為だった。多くの義勇兵がドイツ軍に入隊する際の条件として、母国スイスに対しては銃を向けないことを要求した。ヒトラーによるソビエト侵攻の結果、全部で約350万人のドイツ軍兵士とSS兵士がソ連で抑留され、1956年までに祖国の土を踏んだのは200万人だったという。

ロバート・プリンツィンク氏の運命

 「今回の展示では、スイス人義勇兵の1人でありザンクトガレン出身のロバート・プリンツィンク氏が辿った運命を紹介しています。ほかにも義勇兵はいましたが、すでに全員亡くなっています。プリンツィンク氏は8年前に亡くなりましたが、ご遺族がプリンツィインク氏の書類や回想録の公開を承諾してくれました」
 とツェルヴェガー氏は言う。

 2年前に展示を思いついたのは、プリンツィンク氏の息子アンディさんだった。
「父が経験したことを語ることは、わたしにとって大きな意味を持っています」
 と言うアンディさんは、父親について語る。
「父は1944年から1948年までの4年間捕虜でした。わたしがまだ若かった頃は、父の過去についてあまり知りませんでした。しかし、父はことあるごとにスプーンや逃亡や飢えなどについて断片的に語っていました。でも、その時はすべてを結びつけることができませんでした。幸運にも父はすべてを書き残していたのです。おそらく釈放されてすぐのことだったと思います。しかし、父のしたことはタブーだったため、後々まで父は回想録のことを家族に語りませんでした」

 今回の展示の中核を成しているのは、ロバート・プリンツィンク氏による捕虜時代に関する記録、写真、文書のほか、捕虜時代の所持品やほかの捕虜から受け取った物だ。収容所での日々を少しでも耐えられるものにしようと、身辺で手に入る木、金属片、古い釘のようなものを使って捕虜たちが作ったスプーン、ナイフ、パイプ、チェスも来場者の目に留まることだろう。

 展示が示すように、当時はソ連国民全体にとっても同じように過酷な時代だったが、ドイツ人戦争捕虜に対する待遇はドイツに抑留されたロシア人捕虜よりもよっぽど恵まれたものだったという。

タブー

 スイスは義勇兵に対して厳しかった。1943年、連邦政府は第3帝国に協力したすべてのスイス国民からスイス国籍を剥奪 ( はくだつ ) するべきであると定めた。1945年末までに29人がその対象になった。スイスに戻ると、義勇兵は軍事裁判にかけられ、処罰の内容はその人物の私生活や軍隊での様子、外国の軍隊に入隊した動機に左右された。

 しかし、ロバート・プリンツィンク氏のようなかつての捕虜たちはたいてい異なる待遇を受け、軍事裁判にかけられることはあまりなかった。
「1950年代初めにスイス政府が父からの帰国要求を受けた際、当局は父が捕虜としてソ連に抑留されていた事実を考慮に入れたため、父はそれ以上の処罰を受けませんでした」
 とアンディさんは言う。

 小規模だが意義深い今回の展示が扱うテーマは今でも多くの意味でタブー視されている。博物館の後援者の中からは反対の声も聞かれ、中には資金援助を拒否するスポンサーも出た。それでも、館長のダニエル・シュトゥダー氏は意見の分かれるこのテーマに焦点を当て、ほとんど忘れられている歴史の一幕に光を当てることは博物館の義務だと考えている。しかし、義勇兵のテーマは可能な限り客観的に議論されるべきだ。



swissinfo、パオラ・ベルトラメ ザンクトガレンにて 中村友紀 ( なかむら ゆき ) 訳

キーワード

「寒さ、飢え、ホームシック―ソ連戦争捕虜1941~56年」
ザンクトガレン歴史民俗博物館 ( Historisches und Völkerkundemuseum ) にて2009年9月13日まで公開中。

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独ソ戦争

1941年6月22日、ドイツはソ連に対し攻撃を開始した。ドイツ軍は迅速にソ連に侵攻し、300万人に上るロシア人捕虜を捕らえた。
戦況に変化が見え始めたのスターリングラード攻防戦からだ。1942年春、アドルフ・ヒトラーはこの攻撃がソ連での最後の戦いになるだろうと期待し、2方面からの攻撃を開始した。しかし、ドイツ軍は苦戦を強いられた。
ソ連赤軍は後退するドイツ兵をドイツまで追った。最終的な勝利は、1945年4月にソ連兵士がベルリンの国会議事堂に赤旗を掲げた瞬間に決まった。
ヒトラーはたった数カ月で戦争は収束すると考えていたが、実際は4年間にわたり、史上最長の戦争の1つに数えられる。約2700万人がソ連で死亡した。

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