温暖化の「犯人」ではなく「被害者」 スイス農家が起こした気候訴訟

農業は温暖化の犯人であり被害者――。スイスの農家が起こした気候訴訟が国内外で注目を集めている。裁判の行方は、気候訴訟がまだ少ない日本にも影響を与えそうだ。

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農家は自分たちの声を届ける方法を知っている。不満を表すためにトラクターで道路を封鎖し、市内に肥料の山を投棄することもいとわない。2024年には環境政策や生産コストの上昇、国際競争に対する農業界からの抗議が、スイスをはじめ多くの欧州諸国で野火のように広がった。
スイスの農家の闘いは地味ながら、大きな効果を持つ可能性を秘めている。
スイス各地の農家9人と小規模農業組合5団体が2024年3月、スイス連邦政府を提訴した。政府が気候に対して十分な対策を講じず、農家の存在を危険にさらしていると訴える外部リンク。現在、ローザンヌにある連邦行政裁判所で係争中だ。
コロンビア大外部リンクによると、世界で気候変動を理由とする訴訟の件数は、2023年の2540件から2024年は2900件近くに増えた。個人や団体が原告となり、政府の気候政策の不十分さや、化石燃料企業の二酸化炭素(CO₂)排出に対する責任を追及する。
デンマーク、米国、ニュージーランドなどでは、アグリビジネス(農業関連産業)や畜産業を相手取った訴訟もある。国連食糧農業機関(FAO)によると、肉類・乳製品の生産から排出される温室効果ガスは世界の人為的排出量の約15%を占める。牛やその他反芻動物の代謝によって生成されるメタンは、強力な温室効果を持つ。
スイスの気候訴訟が特異なのは、これまで気候変動の元凶の1つと認識されてきた農家が原告となったことだ。英グランサム気候変動環境研究所の政策アナリスト、エミリー・ブラディーン氏はswissinfo.chのメール取材で、「農民も気候変動の被害者になり得ると主張するもので、従来の見方を覆す点が興味深い」と指摘する。 ローザンヌ大学のシャーロット・E・ブラットナー准教授(公共法・環境法)も、スイスの気候訴訟はパラダイムシフトになるとみる。「農家が環境問題に対して自身をどう位置付けるか、という大きな転換点となる」

気候変動対策を講じる法的義務
農業は地球温暖化の影響を大きく受ける。気温上昇や旱魃、異常気象により農作物の収穫量が減少。害虫も蔓延しやすくなり、大気中のCO₂濃度が上がると生産性が低下する。
「できる限りの対応策を講じているが、限界がある。40度越えの夏が続けば何も育たなくなってしまう」。ジュネーブでワイン用ブドウ畑を営むイヴ・パタードンさんは昨年3月、フランス語圏スイスの大手紙ル・タン外部リンクのインタビューでこう吐露した。2022年の旱魃では数万フランの損害を被ったという。
パダードンさんは農家気候訴訟の原告団の1人。連邦環境省に対し、排出量削減に関する国内・国際的な目標の達成に必要な措置を講じるよう求める。
スイス政府は2017年にパリ気候協定を批准し、2050年までに排出量実質ゼロという目標を掲げている。
農業収入が4割減
原告代理人を務めるスイス気候弁護士協会外部リンクは、環境省の気候政策は不十分で、農家の経済的自由と私有財産の保証を損なうと主張する。過去3年間、旱魃や大雨、雹により収入は1~4割減った。
原告側が政府の対策不足を主張する根拠として挙げたのが、国際エネルギー機関(IEA)の2023年の報告書外部リンクだ。報告書によると、スイスの1人当たり年間排出量は14トンと世界平均の6トンを大きく上回り、世界最大の排出国の1つに数えられている。「気温が高く農業用の水需要が高い時期に、旱魃が起こりやすく長引くようになる」と予測するスイス非ヒトバイオテクノロジー倫理委員会(EKAH/CENH)の報告書も引用外部リンクする。
気候変動の影響から国民を守る政府の責任を認めた判例にも依拠する。2024年にスイスの市民団体「気候シニア」の訴えを認めた欧州人権裁判所(ECHR)の歴史的な判例もその一つだ。
「最後まで闘い抜く」
環境省は農家たちの訴えに真っ向から反論している。スイスはすでに気候に対して十分な対策を講じており、農家が受ける気候変動の影響は他の国民に比べて大きいわけではない、と主張する。
連邦政府は、2024年のECHR判決を「欧州人権条約の拡大解釈」と批判し、対応しない方針を宣言外部リンクした。スイス気候訴訟弁護士協会のアルノー・ヌスバウマー・ラグザウイ会長は、これは「信じがたい」決定であり、「権力分立に抵触する」と指摘する。
行政裁は年内に判決を下す見込みで、原告は好ましい結果が得られると確信している。もし敗訴すれば連邦最高裁判所に上訴し、ECHRへの提訴も視野に入れる。「我々は最後まで闘い抜くつもりだ」(ヌスバウマー・ラグザウイ氏)
世界的判例に
農家が原告となる気候訴訟は、スイスが世界初ではない。パキスタンのラホール高等裁判所は2015年、1人の農家が政府を相手取った訴訟で、原告側に有利な判決を下した。気候変動適応策を講じなかったことで、政府はこの農家の生存権と人間としての尊厳を侵害したと断罪した。
だがオランダのティルブルフ大学のコリーナ・ヘリ助教(憲法・行政法)によると、訴訟が功を奏する事例は乏しい。法律は変更されず、裁判所の義務付けも履行されていない。
日本では気候訴訟そのものの提起が難しい。NPO気候ネットワーク外部リンク(京都市)によると、最高裁判所は個々の市民には「気候変動の影響から保護される法的権利がない」との立場で、環境NGOが代表して訴訟を提起する法的枠組みもない。ECHRのように「気候変動は人権侵害」とみなす社会認識にも乏しい。
ヘリ氏は、スイスの農家訴訟が「影響力を持つ可能性がある」という。
例えば、小規模農家や農村住民は気候変動の影響を受けやすく、国家は農家らに独自の適応策を期待できないことを明確化する余地がある。「排出量の削減が農業と食糧安全保障を守る唯一の方法であることを確立する可能性もある」

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グランサム研究所のブラディーン氏は、スイスの農家訴訟は気候変動の農業への悪影響を検証する初の訴訟として先行事例になると述べた。「影響が認められれば、政府がこれらの被害を軽減するために取るべき行動について重要な前例となる可能性がある」
ブラディーン氏も欧州や米国、その他の国々で農家が行動を起こすきっかけになる可能性があるとみる。各国の民事弁護士らが他国の訴訟からインスピレーションを得たり、国境を越えて交流したりしているためだ。「農家や気候変動訴訟に関わるすべての人々は、この訴訟がどう展開するかを注視するだろう」
気候ネットワークの代表を務める浅岡美恵弁護士は、日本では農家が原告となっても政府への義務付けを求める訴訟を起こすのは難しいとみる。一方、気候変動による減収を理由に国家賠償法に基づく損害賠償請求訴訟を起こす道はあるという。ただ「その場合も、国の政策と原告農家の損害との関連性について『関係が希薄』とされるか、政治の領域とされて請求が認められない可能性が高いのが現状だろう」。
一方、スイスの訴訟を受け社会の関心が高まり、政府の気候政策に影響を及ぼす可能性には期待できそうだ。「スイスの裁判所が従来の因果関係の考え方に縛られず、政治問題とみなして司法の関与を避けるのではなく、損害賠償義務を認める、あるいは国の排出削減目標の引き上げなどを命じることになっていけば、日本だけでなく多くの国の気候訴訟を提起している人々を勇気づける」(浅岡氏)
編集:Gabe Bullard/vm/gw、英語からの翻訳・追加取材:ムートゥ朋子、校正:宇田薫

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