IV アルプス -8-
氷河の話
氷河が二つ南側の山から村に流れ出て末端をのぞかせている。一つをウンターグリンデルヴァルト氷河、一つをオーバーグリンデルヴァルト氷河という。両氷河とも年によって消長がある。私のおったときは、押し出している時期で、上氷河の方は、末端に架けてあったコンクリート橋を押し潰し、その附近のモレインの丘を、今日のブルドーザーがやるように崩していた。三十年後に行ったときは、反対に五、六百メートルも後退していた。雪線以上に降るのは年中雪が主たるものであるが、急峻な山腹に停滞できず、谷に堆積する。ここをフィルンといって幾百年幾千年の雪が積もる。その重量と夏期、日中表面の融解による水分とで、氷河の下部は氷化する。すると谷の傾斜と自重のためとか或いは複氷の現象とかで谷に沿うて流下するといわれるが、まだ明らかでない。山腹とフィルンとの境界に必ずベルグシュルンドといわれる亀裂が入る。
ユングフラウから出るアレッチ氷河は、長さ二十六キロもあってアルプス第一の大きさであるが、氷河の運ぶ氷雪の量は莫大なものである。氷河は流下につれて谷の床と両側を削って滑らかにして擦痕を残す氷蝕作用をする。また両側の山から落ちる岩石を上に乗せて長い土手を作る。氷の状態が維持できない気温の低い地帯まで来ると、消失する。そして運んで来た岩石が末端に堆積する。これらの岩石の堆積をモレインというが、末端に幾列ものモレインの丘を見ることがある。これは言うまでもなく氷河の消長を示すものである。
氷河流下の速度はたいてい日に何センチという遅々たるものであるが、氷河学者が上氷河で研究しているのに行ってよく話を聞いた。カラコルム辺りでは、一メートル近くも動くものがあるとのことである。氷河の流下は、当然表面の中央が一番早い訳で、両側と底が抵抗を受けるので、流下の方向と反対に亀裂が入る。これをクレヴァスまたはシュパルテといっている。氷河の上を歩くとき最も注意を要するもので、雪や氷におおわれて見えないクレヴァスを、踏み抜いて落ち込まないようにしなければならない。
氷河は生きているといってもよく、夜昼の区別なく動いて、村では崩れる音が遠雷のように響く。これを氷河雪崩というが、谷底が滝になっているところでは、表面のなだらかな状態が失われ、縦横に割れた大小の氷塊となり、バランスを失っては崩れるのである。このような場所をセラックといっている。ヒマラヤの登山では、大概氷河を登って目指す峰の尾根に取り付くのであるが、このセラックの巨大なものをアイスフォール(氷瀑)といっている。
アルプスもそうであるが氷河から流れ出る川はみな濁っている、これは氷蝕による泥土によるもので、この流が湖水に入り泥土が沈澱することではじめて清澄になる。わが国の河川が源流から清澄なのとは違うのである。
日本アルプスも氷河のあったことは明白になっているが現存するものは無いと見られていた。しかるに一九六四年(昭和三九年)富山大学学術調査団の三ヶ年にわたる北アルプス調査の結果、劒沢に現存する氷河を確認した。同調査団長小笠原和夫教授のいわれる「特徴的な温暖氷河」というものであって、アルプスやヒマラヤなどのものとは、生成の性質も規模の大きさも全く違うもののようであるが、画期的な研究といえよう。
スイスのアルプスでは氷河にまつわる話が多い。ツェルマツトの博物館には、テオドルパスの氷河の末端で発見されたローマ時代の硬貨が陳列してある。またヴァイスホルンの水河の末端に一九五六年(昭和三十一年)若い青年の死骸が発見された。調査の結果、一八八八年(明治二十一年)十九歳でヴァイスホルンの登山中に死んだゲオルグ・ウィンクラーであることが明らかになった。彼は当時活躍した登攀者で、彼の名前の岩峰がドロミテにあるほどの人物であったが、七十年近くたって氷河の末端に運び出されたのであった。
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