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ゲオルク・イェナチュ、十七世紀の政治家の生涯を追って

アルプスに抱かれたイタリアの街キアヴェンナ(Chiavenna) swissinfo.ch

日本の世界史の授業には、全く取り上げられないスイス、グラウビュンデン地方。けれど、ヨーロッパの重要な交易路を擁していたこの地は、ヨーロッパ史に常に巻き込まれてきた。今回は、グラウビュンデンきっての有名人でありながら、世界ではほとんど知られていない十七世紀の実在の人物ゲオルグ・イェナチュ(Georg Jenatsch)とグラウビュンデンの関わりを紹介するために、ゆかりの地を歩いてみた。

 先月、グラウビュンデン州都クール(Chur)の大聖堂の中にあるゲオルグ・イェナチュの墓が開けられた。1959年の調査では結論が出なかった疑問、「これはイェナチュの本当の墓なのか」に対する二度目の挑戦である。グラウビュンデン州の考古学専門家が、墓に納められている人骨を最新のDNA分析技術を用いて、調べるのだそうだ。

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 ゲオルグ・イェナチュ。グラウビュンデンで牧師の息子として生まれた彼は、わずかな期間に名声、富、そして政治家としてのキャリアの階段を駆け上った。政治家としてグラウビュンデンの独立を守りつつ、自身の立身を計った彼は、その野望が完成する直前に何者かに斧で惨殺された ——カーニバルの宵、仮面を被った暗殺者たちによって。このドラマティックな生涯は、マイヤー(Conrad Ferdinand Meyer)による小説『ユルク・イェナチュ(Jürg Jenatsch)』で更にロマンティックに脚色され、ドイツ語圏ではよく知られるようになった。

 小説は、かなり事実と異なるらしいので、ここでは簡単に実在の彼の生涯を書いてみよう。

 彼はエンガディン地方で生まれ、1617年に牧師としてのキャリアをシャランス(Scharans)で始める。私の住む村から車で二分のところだ。急高配の坂を登っていくと、狭い小道の奥に、1490年に建てられた小さな教会が姿を現す。教会の前には、もしかしたらイェナチュの時代にもあったかもしれないと思わせる老木が堂々とそびえているが、州随一の有名人が最初に働いた場所だとは思えない簡素な教会だ。教会の歴史を記した冊子には、確かに第十三代牧師としてゲオルク・イェナチュの名が記されていた。

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 三十年戦争(1618–48年)でヨーロッパが揺れていたこの時期、グラウビュンデン州は南北ヨーロッパを結ぶ交通路の要である峠を持っているために、その使用権をめぐり政争のまっただ中にあった。フランスとヴェネツィア共和国に協力するプロテスタント系の党に属していたイェナチュは、スペインとオーストリアに協力するカトリック系の党と対立し、単なる牧師としてではなく政治家への道を歩み始める事になる。

 1620年にグラウビュンデン州の属州であった現在のイタリア、ロンバルディア州にあるヴァルテリーナ (Valtellina) に赴任し、二年ごとに選ばれる総督になるなどキャリアを積んだイェナチュだが、1620年夏のスペイン軍の力を借りたカトリックの住民たちによるプロテスタント教徒大虐殺から逃れてグラウビュンデンに戻ってくる。この後、牧師を廃業して、政界だけに身を置く事になった。フランス軍の力を借りてヴァルテリーナから、スペイン・オーストリアを追放する事に成功する一方で、1621年夏には、やはり我が家からほど近いローデルス(Rodels)の城で、政敵の党首の暗殺に参加した。

 イェナチュらグラウビュンデンの政治家による政治的駆け引きが功を奏し、ヴァルテリーナは、その後も二百年近くグラウビュンデンの支配下にあり続けた。ナポレオン戦争の後の1815年のウィーン会議で、属州の身分からは解放されたものの、スイス連邦に加わる事を願っていたにもかかわらず、当のスイスに拒否され、それ以来イタリアの一部になった。その中心地、キアヴェンナ(Chiavenna)は、ピッツアやウサギの煮込みやポレンタが美味しい素敵なイタリアの城下町だ。シュプリューゲン(Splügen)峠を越えてすぐなので、私にとっては最も近いイタリア。エンガディンからブレガリア谷を通ってシュプリューゲンに帰る時にもしょっちゅう通るおなじみの地域だ。この一本道を車で通れば、20分以内に、スイスとイタリアの国境を二度も通る事になる。

 話をイェナチュの生涯に戻そう。ヴァルテリーナに対する強くなりすぎたフランスの影響力は、グラウビュンデンには大きな問題になっていた。やがて、イェナチュは、本来の敵であったはずのドイツ・オーストリア側にすり寄っていく。それは単に政治的な理由だけではなかったようだ。血みどろの政争の中で、彼は着実に富と地位を築いていた。しかし、彼はそれに満足していなかった。当時は、スイスの一部でありながら、ドイツ帝国の支配下にもあったダヴォス(Davos)の市民権を取得し、さらにわざわざカトリックに改宗して、ドイツ皇帝に称号と領地の取得を働きかけたのである。このあからさまな態度の豹変と成り上がりぶりが、周りの政治家やスイスの貴族たちの反感を買った事は間違いない。

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 イェナチュは、貴族への叙任を待つばかりだった1639年1月21日、カーニバルの宵にレストランで食事をしている最中に暗殺された。当時独立国だったハルデンシュタイン(Haldenstein)公や政敵フォン・プランタ(von Planta)やグーラー(Guler)などの手による者の犯行の可能性が濃厚だとされているが、真相は闇の中に葬り去られてしまった。しかし、カトリックに改宗していた彼は、少なくとも大聖堂に葬られる事になったのである。

 州都クール(Chur)の旧市街の一番奥にある大司教座(Bischöflicher Hof)に鎮座するカテドラル(大聖堂)は、2007年に修復が終わったばかりで整然と美しい。イェナチュの墓と墓標は、正面入り口から聖壇の方を向いて左手の一番入り口に近い後ろにある。有名人で、場所を訊く人が絶えないためであろう、壁にご丁寧にも「Jürg Jenatsch」と書いてある。彼が命を落としたレストランは、もう残っていないが、あたりには当時からずっと続いているレストランもあり、歴史的な内装に当時を思いながらコーヒーを飲んだ。

 イェナチュの生涯は、当時から現在に至るグラウビュンデンとスイスの特異な位置と深く関わっている。ヨーロッパの大国に挟まれた小国でありながら、いくつもの峠を抱くヨーロッパの要地として、武力と政治力で独立を守ったスイス。プロテスタントとカトリックという二つの流れが、単なる宗教上の問題ではなく政争と関わっていた事。独立国なのにドイツ帝国の一部でもあるという奇妙な二重支配の構造。スイスの歴史を紐解くと、ヨーロッパ史の複雑さが凝縮している。

 三十年戦争の中で、グラウビュンデンという小国の一政治家でありながら、フランスやオーストリアと堂々とわたり合い、成り上がり、そして無惨にも散ってしまった徒花のような存在のイェナチュ。四百年経っても、ロマンをかきたてられるせいか、グラウビュンデンやスイスでは折にふれて表舞台に上がってくる。当時と同じ建物が残るグラウビュンデンで、遠い日の少々人間臭い英雄に想いを馳せながら、この地をめぐってみるのも一興だろう。

ソリーヴァ江口葵

東京都出身。2001年よりグラウビュンデン州ドムレシュク谷のシルス村に在住。夫と二人暮らしで、職業はプログラマー。趣味は旅行と音楽鑑賞。自然が好きで、静かな田舎の村暮らしを楽しんでいます。

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