権力、記憶、そして「ロシア帝国」を見つめ続けたヴィタリー・マンスキー監督
ウクライナ出身の映画監督ヴィタリー・マンスキー氏は、レーニンの遺体からロシアによるウクライナ侵攻に至るまで、ソ連・ロシア史に残る激動の瞬間をドキュメンタリー映画に記録してきた。その全貌をたどる回顧展が今秋、チューリヒで開かれた。
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2014年のクリミア併合を発端としたロシアとウクライナの紛争、そして2022年のロシアによるウクライナ侵攻——。それからまもなく4年が経過しようとしている。その間、ウクライナの映画作家たちは、それぞれ独自の手法で自国の戦争を記録してきた。
中でも最も多作な監督の1人といえるのが、マンスキー監督だ。過去最大規模となる今回の回顧展は、チューリヒのアート系映画館フィルムポディウム外部リンクのニコル・ラインハルト館長がキュレーターを務めた。
最新作「Time to The Target(標的までの時間)」(2025年、179分)は、マンスキー監督の故郷であるウクライナ西部の都市リヴィウを描いた長編だ。前線から離れていても戦争の苦しみから逃れられない現実を映し出す本作は、2月のベルリン国際映画祭で初上映され、今回のチューリヒ回顧展開催のきっかけとなった。
回顧展では10作品が上映された。マンスキー監督の近年の焦点はウクライナだ。ロシアのウクライナ侵攻開始以降、塹壕と日常を往復する軍医たちを描く「Eastern Front(東部戦線)」(2023年)、欧州で増大する軍備を追った短編「Iron(仮訳:鉄)」(2024年)を制作した。
一見すると、マンスキー監督は現代ウクライナのドキュメンタリー運動を牽引する監督の一人に過ぎない。しかしそれは必ずしも正確ではない。人生の多くをロシア国民として過ごし、2014年にウクライナの映画人たちへの連帯を示す公開書簡に署名すると、ラトビアへ移住した。
マンスキー監督はロシアとウクライナの二重国籍者で、2022年以降、ロシア内務省から「指名手配」されている。その生い立ちと、40本を超える作品群はいずれも「アイデンティティ」「国籍」「帰属」というテーマを深く掘り下げている。
映像作家の誕生
1963年にリヴィウで生まれたマンスキー監督は、多くのウクライナ出身の監督と同様、当時映画教育の中心とされたモスクワで学んだ。デビュー作「Dogs(仮訳:犬たち)」(1986年)から5年後、崩壊寸前のソ連を象徴する題材を取り上げた「Lenin’s Body(仮訳:レーニンの遺体)」を完成させる。
「Lenin’s Body」は、1917年から1924年にかけてソ連の政権を握った革命指導者レーニンのミイラ化された遺体をめぐる奇妙な現象を象徴性と現実の両面から問い直した作品で、1991年のロカルノ国際映画祭で初上映された。以降、マンスキー監督はアーカイブ映像のコラージュと実生活の観察という二極を自在に行き来する独自の手法を確立する。
1999年の「Private Chronicles. Monologue(青春クロニクル)」では、5000時間に及ぶ映像資料と2万点の写真を編集し、1961年ソ連生まれのごくありふれた民間人の虚構の伝記を構築した。
アマチュア個人映画のアーカイブからフィルムを集め、日常生活の断片を歴史的寓話へと昇華させ、共産主義体制が崩壊する数年前の生活を詩的に描き出した。
マンスキー監督作品におけるもう一つの特徴として、カメラを固定し、構造物と風景の中にソ連およびソ連崩壊後の風景を読み取る長回しが挙げられる。
代表作「Pipeline(仮訳:パイプライン)」(2013年)では、シベリア西部から西欧へと延びる天然ガスパイプラインを焦点に据え、100日間・1万7000kmに及ぶ撮影で、資源を掘り出す労働者の貧困と、それを享受する西側社会との地理的、政治的な距離を描き出した。ナレーションも解説もなく、ただ映像が乖離を物語る。
権力への接近と自己批評
マンスキー監督の強みは、他の報道関係者が踏み込めない領域へのアクセス力にある。「Putin’s Witnesses(プーチンより愛を込めて)」(2018年)は、その最たる例だ。ウラジーミル・プーチン大統領にこれほど近づいた映像作家は他にいないだろう。
作品は1999年の大晦日、マンスキー監督が妻や娘たちと新年を祝う場面から始まる。家族は監督が向けるカメラに苛立ちを見せるが、そこに1999年12月31日に大統領代行に就任するプーチン政権の始まりを前にした家族の不安が交錯する。
当時、マンスキー監督はロシア国営テレビでプーチン初の選挙戦を取材しており、プーチンやボリス・エリツィン一家を非公式に撮影する機会を得た。数年後、この映像を再構成し、監督は自己批評的な作品を作り上げた。プーチン大統領の権威の誕生を描くだけでなく、自らがその神話づくりに加担した事実も告白している。
作風は異なるが、同様に内省的な作品が「Gorbachev. Heaven(仮訳:ゴルバチョフ・ヘヴン)」(2020年)だ。ソ連最後の指導者を自宅で撮影し、静かな尊厳と憂愁のうちに描く。1980年代にソ連で進められた政治体制の改革ペレストロイカ、レーニン、信仰、愛について語るゴルバチョフの言葉を静かにすくい上げた。
海外への旅
マンスキー監督は民族誌の観察者ではなく、ロシアの過去と現在を反映する政治体制の記憶をたどる旅人だ。
「Patria o muerte(祖国か死か)」(2011年)ではキューバを訪れるが、革命の理想と現実を自らの祖国ロシアの挫折になぞらえ、詩的かつ容赦ない視線で現代キューバ社会を捉えた。
転機となったのは、北朝鮮を舞台にした「Under the Sun(太陽の下で-真実の北朝鮮-)」(2015年)だ。体制側の厳格な検閲のもと、脚本からカメラアングルまで申請して、北朝鮮の模範家庭の日常を撮影する許可を得たマンスキー監督は、秘密裏にカメラを回し続けた。
撮影を止めるよう指示されても録画を続け、被写体として申請した行進ではなく個人の表情をズームで追い、カーテン越しに撮影するなどして監視をすり抜けた。その結果生まれた本作は、独裁国家の「正常」という幻想を暴く衝撃的な記録であり、いまや世界の映画学校で深い真実を探る役割を担うドキュメンタリーのお手本とされている。
ウクライナ人としてのアイデンティティ
ロシアを中心にした作品が多いマンスキー監督だが、故郷リヴィウへの思いは一貫している。あまり知られていない下記2作品がそのつながりを明らかにし、「偶然の三部作」の完結編として、出生地への多作かつ誠実な賛歌となっている。
「Gagarin’s Pioneers(仮訳:ガガーリンの少年たち)」(2006年)では、マンスキー氏は世界各地に散ったかつての学友33人を訪ね、リヴィウでの幼少時代を語り合うことで「祖国とは何か」を問う。
10年後、クリミアでの戦争を背景に、もう一つの私的な映画「Close Relations(仮訳:近しい関係)」(2016年)を制作した。マンスキー監督は作品の中で、国家の亀裂のメタファーとして自身の家族を用いている。親族の中には西ウクライナ出身者もいればクリミア出身者もいる。彼らがひとたび顔を合わせると、きまって起こるのは政治議論だ。リヴィウ旧市街のリノク広場の静寂な風景が、家族の諍いの合間に挿入される。
最新作「Time to The Target」では、このリノク広場を再び登場させ、戦争がここをいかに変えてしまったかを描いている。結婚式を祝っていた教会は、いまや兵士の葬儀を絶え間なく執り行う場となり、笑顔の観光客は悲嘆に暮れる母親たちに置き換わった。
冷静で適度な距離を保った映像構成は、現代ウクライナ・ドキュメンタリーの美学に呼応する。だが静謐な観察のうちに「アイデンティティ」と「故郷」という主題を精密に捉え、ロシアの侵略によってそれらが破壊されていく過程を記録するマンスキー監督の声は、同時代の作家の中でも独自の響きを放っている。
編集:Virginie Mangin and Eduardo Simantob/sb、仏語からの翻訳:横田巴都未、校正:宇田薫
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