The Swiss voice in the world since 1935
トップ・ストーリー
ニュースレター
トップ・ストーリー
スイスの民主主義
ニュースレターへの登録

表現主義の巨匠キルヒナー スイスで得た安らぎと苦悩

全長4メートルの絵画『山岳農民の日曜日』(1923-24/26年)は、ベルンでの展示のため、ベルリンのドイツ首相官邸からクレーンで撤去される必要があった。
4メートルの大作「Sonntag der Bergbauern(高山の牧場の日曜日、1923-24/26年)」は、スイス・ベルンでの展覧会のためにドイツ・ベルリンの連邦首相府からクレーンで運び出される必要があった © Bundesrepublik Deutschland

表現主義を代表する画家兼彫刻家のエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーは典型的なドイツ人芸術家として知られているが、人生最後の20年間をスイスの山岳リゾート地ダボスで過ごした。

2025年夏、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーの大作「Sonntag der Bergbauern(仮訳:山の農家の日曜)」がドイツ連邦首相府から運び出された。閣議が開かれる部屋に過去50年間飾られていた絵画で、夜のニュース番組に頻繁に映り込む作品だ。

4メートルの大作を中庭に下ろすにはクレーンが必要だった。フリードリヒ・メルツ首相が各国首脳を迎える中庭から、ベルン美術館の展覧会「キルヒナー×キルヒナー」へと運ぶためだ。代わりに、スイス人芸術家のメレット・オッペンハイムの絵画「Neue Sterne(新しい星)」がドイツ首相府の閣議室に貸し出された。

アルプスの日曜日。井戸辺の情景 [Sunday in the Alps. Scene at the Well], 1923-24年/1929年頃
「Alpsonntag. Szene am Brunnen(アルプスの日曜日 井戸端の風景)」(1929年) © Kunstmuseum Bern

「Sonntag der Bergbauern」はベルン美術館で、同じ大きさのキルヒナー作品「Alpsonntag. Szene am Brunnen(アルプスの日曜日 井戸端の風景)」と並べられた。鮮やかな紫、緑、深い青が印象的な両作は、屋外でくつろぐアルプスの農民たちを描いており、いずれも1923から24年にかけて制作された。1933年にキルヒナーがベルン・クンストハレで並べて展示して以来、初めての再会となった。

ソーシャルメディアよりはるか以前に自己宣伝の達人:キルヒナー、1913年(あるいは1914年)。
キルヒナーはSNS時代のはるか以前から自己プロモーションの達人だった。1913年(または1914年)に撮影 (C) Kunstmuseum Bern

ベルン美術館は当時の個展で直接「Alpsonntag. Szene am Brunnen」を購入した。キルヒナーの存命中にスイスの美術館が収蔵した唯一の作品だ。両作品は、1933年の個展を振り返る企画展「キルヒナー×キルヒナー」展の目玉となった。

キルヒナーにとって、1933年の個展はスイスで知名度を上げる絶好の機会だった。ナチスから「退廃芸術」の烙印を押されたキルヒナーの作品は、ドイツでは敬遠されるようになっていたからだ。

インスタグラムやインフルエンサーが登場するはるか以前から、キルヒナーは自己プロモーションの達人だったようで、展覧会のキュレーションだけでなく、ポスターのデザインもみずから手がけ、カタログの紙質やフォントまで細かく指定した。

個々の作品に関するカタログ用の短い解説文さえ自分で書いた。キュレーターのナディーン・フランツィ氏は、今回のベルン美術館の展覧会カタログでこう書いている。「それは彼の芸術的自己像の表現であり、自己確認の行為だった。距離感とコントロールを巧みに組み合わせていた」

「ブリュッケ」

「髪を梳かす裸婦」[Nude Woman Combing Her Hair]、1913年。
「Sich kämmender Akt(髪をとかす裸婦)」、1913年 © Brücke-Museum

キルヒナーが初めてスイス東部のリゾート地ダボスを訪れたのは1917年1月だったが、寒さに耐えられずベルリンに戻った。滞在は短かったにもかかわらず、もっと長く過ごしたいと思ったのだろう。同じ年の5月には、看護師に付き添われてダボスに移り住んだ。

そのころのキルヒナーは心身ともにぼろぼろの状態だった。1915年、精神疾患を理由に第一次世界大戦の兵役を免除され、翌年の大半をベルリンの療養所で過ごしていた。アルコール、睡眠薬、モルヒネに依存し、失神や麻痺に苦しんでいた。

「赤いコケットのある通り」 [Street with Red Cocotte]、1914/25年。
「Strasse mit roter Kokotte(赤い娼婦のいる街路)」、1914-25年 © Museo Nacional Thyssen-Bornemisza, Madrid

ドイツではすでに画家として広く知られていた。1905年、エーリヒ・ヘッケル、カール・シュミット・ロットルフ、フリッツ・ブライルとともに、ドレスデンの廃業した靴屋の店舗で芸術家グループ「ブリュッケ」を結成した。グループは「すべての若者に団結を呼びかけ、未来を担う者として創造の自由と生活の自由を主張し、のほほんとした古い勢力に対抗する」という革命的なマニフェストを掲げた。

ブリュッケの絵画は彼らの自由奔放な生活様式を反映していて、ドレスデン周辺の湖で裸で泳ぐ若い女性モデルを描いた作品が多い。ベルン美術館に展示された「Zwei weibliche Akte im Hochformat(縦長の二人の裸婦)」と「Sich kämmender Akt」は、1913年にグループが解散したころの作品だ。

1911年、ブリュッケはベルリンに拠点を移した。キルヒナーは急速に発展する大都会のエネルギーに刺激を受け、代表作として今もよく知られている、エロティックな緊張感に満ちた街角の情景を描くようになった。派手な衣装の娼婦とスーツに帽子姿の客が、エッジを効かせた技法で描かれている。そのうちの1点「Strasse mit roter Kokotte」(1914年)は、スペイン・マドリードのティッセン・ボルネミッサ国立美術館からベルン美術館に貸し出されたものだ。

ダボスでの晩年

ダボスに移り住んだキルヒナーは心の平穏を見つけた。1921年にはパートナーのエルナ・シリングもやってきた。山々と農村に着想を得て、「Sertigtal im Herbst(秋のゼルティヒ谷)」(1925-26年)など、タペストリーを思わせる鮮やかな風景画を描き始めた。この作品はダボスのキルヒナー美術館から貸し出された。「Sitzende Dame(座る女性)」(1926年)では、山々と木々を背景にしたバルコニーで、シリングが赤と青のドレスを着て足を組んで座っている。

「Vor Sonnenaufgang(日の出前)」(1925-26年)のような、自然を楽しむ人々を描いた穏やかな情景は、初期の作品には見られない瞑想的な静けさを醸し出している。後期の作品のいくつかでは、抽象芸術への傾向も見られる。「Drehende Tänzerin(回転するダンサー)」(1931-32年)は、口が2つ、腕が4本ある踊る人物を描き、動きによって輪郭がぼやける感覚を表現している。

くるくる回る踊り子 (1931/1932)
「Drehende Tänzerin(回転するダンサー)」 Stadel Museum, Frankfurt am Main

自分の作品がどう受け止められるかをずっと気にかけていたキルヒナーは、ルイ・ド・マルサルという偽名で自分の展覧会の批評まで書いた。これ以上に鋭くて知的な批評を行なう方法がほかにあるだろうか?

ド・マルサルというモロッコ在住のフランス人批評家を名乗ることで、キルヒナーは作風の変化をみずから解説できたと同時に、文章に距離感と権威を与えることにも成功した。合計6回、ド・マルサルの名で自身の作品について批評文を書いた。最後の6番目の批評は1933年のカタログに掲載されたが、キルヒナーはド・マルサルの名の横に十字を付けて故人であることを示し、この架空の批評家を葬り去った。

スイスで見いだした平穏は、長くは続かなかった。1933年、キルヒナーは不安を感じていた。キルヒナーの生活はドイツでの収入に大きく依存していたのだが、そのドイツの市場が縮小を続けていた。アドルフ・ヒトラーが首相に就任した1月、あるドイツの美術館がベルン・クンストハレに対し、貸し出し禁止令のため要望の作品を貸与できないと通達した。やがて始まる規制を暗示する出来事だった。

キルヒナーの彫刻『カップル』は、1937年にミュンヘンで開催された悪名高い「退廃芸術展」に出品された。
1937年にミュンヘンで開催された悪名高い「退廃芸術展」に出品されたキルヒナーの彫刻「Das Paar(カップル)」 © Staatsarchiv Hamburg

同じ年の5月、キルヒナーはダボスからドイツ・フランクフルトのコレクター、カール・ハーゲマンに手紙を書いている。「私は少し疲れ、そちらの状況を悲しく思っている。戦争の気配がする。美術館では過去20年間に苦労して築いた文化的成果が破壊されている。私がブリュッケを設立したのは、まさにドイツで生まれた真のドイツ芸術を育むためだったのに。それが今や非ドイツ的だといわれている。ああ、本当に悔しい」

ドイツ・エッセンのフォルクヴァング美術館からフレスコ画の制作を依頼されていたが、ナチスが権力を掌握した翌年の1934年に同美術館の館長が解任されたため、このフレスコ画は実現しなかった。1936年、キルヒナーは腸の痛みを和らげるため、ふたたびモルヒネに頼り始めた。

1937年、キルヒナーの作品およそ700点がドイツの美術館から撤去され、そのうち30点以上が同年7月からミュンヘンで開催された悪名高い「退廃芸術展」で展示された。ヒトラー政権下の大臣としてプロパガンダを担当したヨーゼフ・ゲッベルスが企画した、近代美術を嘲笑し中傷するための展覧会だ。キルヒナーの精神状態は悪化した。1938年、ダボスの自宅近くでピストル自殺を遂げ、ヴァルトフリートホーフ墓地に埋葬された。58歳だった。

スイスでの評価

キルヒナーは、スイスではなかなか認められなかった。「人々はフランスの画家に慣れていて、私の形や色に衝撃を受ける」と彼は書いている。しかしキルヒナーがスイスの芸術界に影響を与えたことは確かだ。現在、ベルン美術館は「パノラマ・スイス カスパー・ヴォルフからフェルディナント・ホドラーまで」と題した展示会を並行して開催し、スイスの画家たちが3世紀にわたってアルプスの世界をどのように描いてきたかを探っている。

そのうちの1室が、バーゼル出身の若い表現主義者たちをテーマにしている。彼らに大きな影響を与えた画家は、他でもないキルヒナーだ。たとえばアルベルト・ミュラーの強烈な紫、薄紫、緑、青の自画像は、キルヒナーのパレットから大いに影響を受けている。

キルヒナーは異国の山岳地帯で暮らしながらも「真のドイツ芸術家」であり続けたといえる。それでもスイスにしっかりと足跡を残した。今なお、ダボスで制作した作品に対する国際的な評価は高まり続けている。その人気は今回のベルン美術館での展覧会でさらに高まるだろう。

「クラヴァデルからの山岳風景」、ダヴォス地区、1927年。
「Berglandschaft von Clavadel(クラヴァーデルから眺めた山岳風景)」1927年 ダボスのクラヴァーデル地区を描いた作品 Museum Of Fine Arts, Boston

「キルヒナー×キルヒナー」展はベルン美術館で2026年1月11日まで、「パノラマ・スイス カスパー・ヴォルフからフェルディナント・ホドラーまで」展は2026年7月5日まで開催。

編集:Virginie Mangin/ts、英語からの翻訳:長谷川圭、校正:ムートゥ朋子

人気の記事

世界の読者と意見交換

swissinfo.chの記者との意見交換は、こちらからアクセスしてください。

他のトピックを議論したい、あるいは記事の誤記に関しては、japanese@swissinfo.ch までご連絡ください。

SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部