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クレーの幻想の世界へようこそ

「硫黄地帯」1937年、テンペラ、紙、厚紙、 ZPK/Schenkung Livia Klee

20世紀の巨匠、パウル・クレーが故郷スイスに戻ってきた。6月20日、待望の「パウル・クレー・センター」(Zentrum Paul Klee)開館に当たりスイスインフォではクレー特集を組んだ。クレーの様々な側面を紹介する楽しい特集をどうぞお楽しみ下さい。

クレー財団の研究員、奥田修(おくだおさむ)氏にクレーの作品の中から3点選んで、解説してもらった。クレーの作品は時代と共に画法も変化し続けた。クレーの尽きない魅力に迫ってみる。

 大学浪人時代に日本でクレーの展覧会を見て人生が変わったという奥田氏。修士論文からクレーを研究してきた「クレー一筋」。同時に自らもインスタレーション(様々な物体・道具を配置してある状況を設置し、その展示空間全体を作品とする手法)などをするコンテンポラリー・アーチストだ。この奥田氏にクレーの初期、中期、晩年の作品を一点づつ解説してもらった。

 奥田氏はクレー・センター開館に当たり、クレー未発表の風刺画7点を紹介する『風刺の女神』(Die satirische Muse)をドイツ語で、独文学者レト・ゾルク(Reto Sorg)氏と共に著した。クレーの政治的風刺など皮肉な一面も最近、明らかになってきたという。

swissinfo: 「石切り場」について:色が美しい、立体的な絵ですが、抽象画なのでしょうか?何故このテーマなのでしょう?

これは1915年の作品ですが、チュニジア旅行で色彩に開眼した1914年の後にあたります。パリの画家ドローネーの色彩キュービズム(立体派)に強く影響を受けています。キュービズムといってもドイツ風にロマン主義的な方向ですがね。 

一見、抽象画に見えますが、よく見ると左上に木がまだ見えます。石切り場の四角い断面がキューブになったようです。クレーは1915年で抽象画の頂点に達し、1917年以降は抽象を超えて具象的な絵に戻ります。

これはベルン郊外のオースタームンディゲンに在る石切り場なんです。ここ、クレーセンターからすぐ近くなんですよ。この辺りは、彼のは両親が住んでいた所からも近く、クレーはよく散歩していたようです。この石切り場をモチーフにした多数のデッサンが残っています。ベルン市民の馴染みの場所を当時では最先端の技術で描いたのでしょう。

他にもセザンヌ、ブラックなどが南仏で石切り場を描いていますが、クレーは「大地のエネルギー、生成」といったテーマが好きでした。単に美しいからではなく、背景に地質学的な面白み、石がまた町を生むというような、自然と人間の接点などに興味を持ったようです。

swissinfo: 「赤のフーガ」について:なんだか、ぼやぼやとして目の錯覚かと見紛う不思議な作品ですが?

これは日本でも有名な絵ですが、ワイマールのバウハウスで教師をし、実験的な試みをしていた時代の作品です。クレーはバッハの楽譜を線に変えたり、造形を理論化したりしていました。

これは色彩を少しづつずらしながら、順番に上塗りしていく手法で塗り残したところが前に出てきます。明るい部分、つまりテーマが変奏されていく、いわば、音楽のような作品です。塗っていくプロセスの中で形と色が出来上がり、それを見る者にも“時間の要素”が入ってきます。ですから音楽を聴くのと同じような体験をできるので「赤のフーガ」と名付けたようです。

swissinfo: 「硫黄地帯」について:奥田さんが企画したデュッセルドルフでの展覧会(1995年)のカタログの表紙に使われているようですが?この作品はどういう意図があったのでしょう?

この展覧会のテーマはクレーの切り絵でした。クレーは自分の作品をバラバラに切ってしまう手法を何百点もの作品に使っていて、ここでの試みはその切られた作品をパズルのように元に戻して、絵の手がかりを得るというものでした。この手法を使ったのは切断して取り出された部分を見る人に想像させるという独自の面白さもありました。

「硫黄地帯」ですが、クレーは一枚の作品を三つに切って、その一部を横にして「硫黄地帯」と名づけました。ですから、元は縦の絵でした。左上の部分を「芸術家の公式」、左下の部分を「2本の木」と後から名づけました。この3つの作品を一枚の絵に戻すことで、作品の理解を手助けしてくれると解釈しているのです。

硫黄といえば当時の人はまず、爆薬を思い浮かべるそうです。クレーは第一次大戦を体験していますし、当事1937年はスペインで市民戦争が勃発しています。私はクレーが戦争前夜、自らの病気(1935年に発病)と重ねて描いていると解釈しています。左上には倒れた木があり、右端のモチーフは檻を思い浮かべます。手前の線は鉄条網ではないでしょうか。この一作前に描いた作品は「寝込んだピエロ」(Clown in Bett)という作品でクレーがベッドに横になって病気と戦っています。クレーは病気と戦争を重ね合わせ、その戦いを描いたのではないでしょうか。

swissinfo: 最後に日本のクレー人気の理由はなんでしょう?

日本で始めてクレーが紹介されたのは1914年です。明治時代半ば、ドイツへ勉強に行った日本人が日本に紹介しました。第一次大戦後からクレーの作品を買っている日本人もいました。山田耕筰、川端康成や大岡信、谷川俊太郎など作家や詩人だけでなく、音楽家、建築家などにも人気を博しているようです。クレーの詩的なところが日本人の感性にあうのでしょう。『クレーの日記』(新潮社)は日本でずっとベストセラーですからね。


swissinfo 聞き手、 屋山明乃(ややまあけの)

クレーの生まれ故郷ベルンにパウル・クレー・センターが6月20から開館する。約4000点もの作品を収容する世界で最も重要なコレクションとなる。世界的に有名な建築家レンゾ・ピアノの建物も見所。

 <パウル・クレー・センターへの行き方>

– ベルン駅前から12番のバスで10分〜15分で終点まで直通。または、オストリング行きのバス5番の終点から歩いて5分。

– 火曜〜日曜は9時〜18時、木曜は21時まで開館。月曜休館。入場料は14フラン(約1200円)。

<日本でのクレー>

– 日本では宮城県立美術館でクレーの作品を見ることができる。

– 日本語では『パウル・クレーの日記』やバウハウスの教授時代の授業をノートにした『パウル・クレー手稿 —造形理論ノート』、『クレーの手紙1893年—1940年』 などが翻訳されている。

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