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ユダヤ人難民を受け入れた修道院

アインジーデルン修道院に納められた公文書 - 知られざる歴史の宝庫。 Einsiedeln Abbey

アールガウ州の飛び領土に建つファー修道院 は、巡礼路「聖ヤコブの道」の要所アインジーデルン修道院に属している。

しかし、第2次世界大戦中にこのファー修道院で難民が暮らしていた事実はあまり知られていない。ましてや難民のほとんどがユダヤ人だったとなると、周囲の住民にとって受け入れ難かったことは想像に難くない。

これまで知られていなかった事実

 トーマス・フェスラー修士 は現在、神学の学位論文を執筆している。論文は1934年から現在に至るまでのアインジーデルン修道院 ( Kloster Einsiedeln ) の歴史について触れたものだ。

 「わたしは修道院についての公文書を調べていますが、時々興味深い出来事を発見します。残念なことにわたしの論文には直接役に立たないのですが。ただ、このような話がまた暗闇に消えてしまうのはとても残念なのです」
 とトーマス修士は前置きし
 「実は、ファー修道院 ( Kloster Fahr ) が第2次世界大戦中に難民を受け入れ、その中にはユダヤ人も含まれていたという事実に遭遇したのです」
 と語る。彼はこの話がなんとか世間に公表されればと考えた。

 この事実は、トーマス修士だけでなく「全ての人にとって完全に未知の領域」となった。彼は、連邦工科大学チューリヒ校 ( ETHZ ) にある現代史の公文書を調べてみたが、そこにはユダヤ人難民救済の個人記録文書が保管されていた。だが、ファー修道院はユダヤ人難民受け入れ収容所のリストには掲載されていない。
 「ファー修道院内でも当時は誰もユダヤ人難民がいたことに気づいていなかったようです」
 とトーマス修士は付け加える。

 実際、ファー修道院の修道女たちが当時受け入れた14人の難民のうちの大部分がユダヤ人だったことを全く知らなかったかどうかは定かではなく、
 「修道女たちは別の棟で生活していました。彼女たちは俗世間から切り離されて暮らしていたのです。こういった状態では、ユダヤ人難民とのかかわりもごくわずかだったはずです」
 とトーマス修士は当時の状況を語る。

 しかし、当時の修道院長、エリザベス・ガリカー氏と監督教区長、ペーター・アンセルン・クニューセル氏だけはこのことについて知っていたのだとトーマス修士は説明する。

日当は5.50フラン

 文書を調べると、ファー修道院の監督教区長ペーター・アンセルン・クニューセル氏が提出した、1943年11月1日からの14人の難民受け入れ要請に対し、スイス陸軍スペンドリン中尉は10月26日に許可を与えている。その後、スイス軍の女性ボランティア活動グループが難民たちの世話を担当し、スイス軍は修道院に食事と住まいの費用、1日当たり5.50フランを支払ったが、難民たちは何も支払うことなしに修道院で暮らすことができた。

 スイス軍が修道院の難民受け入れを許可した2日後、担当のスイス軍将校は、監督教区長から難民の宿泊施設のために必要な毛布が用意ができないため、支給を依頼する手紙を受け取っている。14枚の毛布は後に返却することを条件に、鉄道貨物で配達された。

ヘブライ語の記録

 スイス軍側から送付されたたユダヤ人女性たちの記録はすべてヘブライ語で記入されていたが、このことが特に反ユダヤ主義の感情を引き起こすことはなかったとトーマス修士は断言している。
「この記録リストには修道院にやって来た難民の名前、生年月日、国籍、宗派などが簡単に記載されています。カトリック教徒の人には略語でその様に書かれていました。これは修道院監督教区長のためだけに書かれた簡易情報だったのです」

 トーマス修士が判断するには、修道女たちがユダヤ人女性難民に対して偏見を持ったり、敬遠するということはなかったという。
「興味深いことは修道女たち自身は周辺の人々よりもずっと寛大だったのです」
 とトーマス修士は語る。

反ユダヤ主義環境下の安全地帯

 トーマス修士は文書の中で修道院周辺地区の住民が修道院に「一体どうしたら修道院の住まいがユダヤ人で一杯になることを受け入れられるのか」と問い合わせているのを証拠として発見した。

 また、1944年1月4日に修道院監督教区長に宛てた手紙の中でアジュダントゥア将校は、多くの子供を抱える貧しい女性の代わりに、子供が少ない、恐らく多くの財産を持っているユダヤ人女性に修道院が住居を与えている事実を第三者から知らされたと書いている。

 それに対して監督教区長は、多くの子供を連れたイタリア人女性たちの受け入れを最初は認めたが、次に、ユダヤ人1人もしくは2、3人では受け入れ難いかと問われたのだと返答している。そこへ最終的にはユダヤ人女性たちが子供を連れずにやって来たが、修道院が信条とする「貧苦に苦しむ人は、わたしたちの修道院に救いを求めることができる」という意味では全く問題なかったのだという。

 ファー修道院は、当時反ユダヤ主義的だった環境から逃がれられる安全地帯だったようだ。

修道女たちと接点はなく

 難民女性たちは、サンクト・アンナ教会の増築部分で生活していた修道女たちとは別々に暮らしていた。彼女たちの世話はスイス軍の女性ボランティア活動グループが担当していたので、ファー修道院は食事と住居を用意するだけだった。食事は修道院の台所で調理されたものが運ばれた。
 
 「現在のたった1人の生き証人は、年齢93歳の修道女、レギュラ・ヴォルフさんですが、当時、難民女性たちとほとんどの連絡を取り繋いでいたのが正に彼女なのです。難民女性たちとボランティア活動グループ、及び修道院の橋渡し役を果たしていたのです」
 とトーマス修士は語る。

 難民女性たちは日常のほとんどの時間を自分たちだけで過ごし、何かと忙しく働いていた。トーマス修士はあるエピソードをこう語る。
「当時、ファー修道院はヴァーレン政府下の政策の一環として、建物の周りにトウモロコシを栽培していました。レギュラ修道女は難民女性たちにもトウモロコシの葉でマットを編むことを教え、彼女たちは喜んで一緒に編みました」

日常から隔離された世界

 1944年、ファー修道院が農婦学校を開校した時、難民女性たちは自分たちの住まいを明け渡さなければならなかった。
 「難民が修道院に滞在できる期間は最初から決められていました。修道院が1944年の春には農婦学校を創設する旨もはっきりと伝えてあったのです」
 とトーマス修士は説明する。

 難民女性たちは、恐らく彼女たちが以前いた難民収容所へ再び戻っていったようだ。トーマス修士は戦後、彼女たちが何をしたのか簡単な報告だけを見つけることができたが、詳細な事実を見つけ出すことはできなかったと語る。

 修道女たちが第2次世界大戦中、ユダヤ人に襲いかかった運命を知っていたかどうかを判断するのは、トーマス修士にとって困難なことだが
 「わたしがレギュラ修道女を通じて知ったことは、修道女たちは当時の日常についてほとんど何も知らなかったということです。修道院の厳格な立ち入り禁止区域が彼女たちを日常の出来事から隔離していたのです」
 
ジャン・ミシェル・ベルトート、アインジーデルン修道院にて、swissinfo.ch
( 独語からの翻訳、白崎泰子 )

1984年10月1日ツーク生まれ。
2003年修道院付属学校にてギムナジウム卒業試験に合格。
フライブルク大学で歴史とラテン語を学ぶ。
学士の学位を取得後、アインジーデルン修道院で神学を研究する。
3年半修道院で暮らした現在、1934年から現在までのアインジーデルン修道院の歴史について学位論文を執筆している。
論文研究の際にファー修道院が第2次世界大戦中にユダヤ人女性難民を受け入れたことを記した公文書を見つける。

ファー修道院では、30人の修道女がキリストの福音と聖ベネディクトの規則に基づいて生活している。
ファー修道院は1130年創設以来アインジーデルン修道院の管轄に属し、ファー修道院とアインジーデルン修道院は複合修道院になっている。以前からアインジーデルン修道院長はファー修道院の修道院長も兼任することが慣わしとなっている。
ファー修道院は監督教区長が主宰する。2003年9月よりイレーネ・ガスマン氏が監督教区長を務めている。

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