スペイン風邪の亡霊と新型コロナウイルス

スイス中央部オルテンの軍事病院、1918年 Bundesarchiv

スペイン風邪は人類史上最も深刻な危機の一つだった。新型コロナウイルスと比較するのは難しいが、スイスではいくつかの共通点がみられる。

このコンテンツは 2020/04/18 06:00

最新の推計では、世界で5000万~1億人、世界人口の2.5~5%がスペイン風邪で命を落とした。スイスだけでも当時約200万人が感染し、2万5千人が死亡した。

この伝染病は全ての大陸に広がり、複数の波が押し寄せた。第1波は1918年4~6月。死者が多かったのは18年秋の第2波、そして19年1~3月に第3波が襲来した。

スペイン風邪の特徴は年齢層による死亡率の違いで、それは現在の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)と大きく異なる。スペイン風邪では特に20~40歳代の感染者が多かった。

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社会的な危機が既に深刻になっていたことも特徴だ。歴史家のセヴリック・イェルサン氏は「大戦で国民は疲弊し、国や経済も弱っていた」と話す。イェルシン氏はバーゼル大の博士課程で、スイスの感染症や公衆衛生を専門とする。

欧州のスペイン風邪は兵舎や塹壕にぎゅうぎゅう詰めになった兵士たちの間で感染が広がった。スイスでは国境を守っていた兵士たちが第一の犠牲者となった。第1波が過ぎた18年7月にも毎日最大35人の兵士が死んでいった。同10~11月にはゼネストが組織され、そのために動員された軍隊の間に第2波が広がった。

当時のメディアも犠牲者は軍隊に多かったと書いたが、特には感染者が多かったのは一般市民だ。歴史家のクリスティアン・ゾンダーエッガー氏はスイスにおけるスペイン風邪について書いた論文で、犠牲となった兵士は全体の8%に満たなかったと記した。

イェルサン氏は「公衆衛生というものが今ほどの意味を持っていなかった。スイスでも少ししか発展していなかった」と話す。連邦の感染症法は一度国民投票で否決された後に1886年に施行されていたが、主に予防接種計画を定めたに過ぎなかった。そして流行性感冒(インフルエンザ)は法の対象外だった。

1893年に連邦保健庁が設置された。連邦政府の公衆衛生政策の基盤となる組織だった。ただ、医療政策を少しずつ中央集権化していく道のりは、州による大きな反発を呼んだ。

スペイン風邪に対する政府の対応はかなり遅れ、治安を守る措置に過ぎなかった。1918年7月8日、連邦内閣は緊急事態宣言を出し、州が集会やデモを禁止できるようにした。

イェルサン氏は「この決定の基礎となったのは、その4年前に開戦した時に設けられた権限で、感染症法を改正したわけではなかった」と説明する。「どちらかと言えば労働闘争を押さえつけるための戦略で、感染症の拡大を防止する目的ではなかった」

保健庁は秋になってようやく学校や映画館、市場の閉鎖や患者の隔離に動いた。連邦内閣は医師らに感染者の報告を義務付けた。

イェルサン氏によると、「いくつかの州はこれらの措置が連邦政府による介入だとみなした。ヴァリス(ヴァレー)州は措置の執行を拒否した」。一方で政府は、州や基礎自治体にかかった費用の半分を連邦が賄うことを約束した。

連邦政府は医療従事者の賃上げ要望にも応えた。同時に州はスペイン風邪流行で失業した人を支援する権限も得た。だが支援の手は十分に行き渡らなかった。

感染症と不公平

政府の対策にも関わらず、スペイン風邪がもたらした損害の多くは国民が被ることになった。最大の被害者は貧しい人々だった。医療保険がカバーする医療費は限られていた。さらに労働組合が運営していた医療保険は1918年のゼネストによって赤字になっていた。

「エピデミック(地域的流行)は社会のあり方について多くのことを明らかにする」とイェルサン氏は話す。「その影響は長らく、ある意味民主的に生じ、全ての人に同じようにもたらされると考えられてきた。だが実際は、死亡率のデータは極めて不均等で、社会的な緊張や不公平を物語っている」


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