タイ国王の母、シリキット王太后死去 スイスで過ごした若き日々
93歳でこの世を去ったタイの「国母」、シリキット王太后。夫のプミポン前国王(ラーマ9世)とともに若き日をブドウ畑の美しいスイス・レマン湖畔で過ごした。夫妻はこの地で愛を育み、のちに欧州歴訪の拠点とした。
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タイのワチラロンコン国王の母で、プミポン前国王(2016年死去)の妻シリキット王太后が死去した。93歳だった。首都バンコクをはじめ、国中に王太后の肖像写真が掲げられ、多くの花やキャンドルが供えられている。タイは10月25日、1年間の服喪期間に入った。
国中が「国母」の死を悼んでいる。シリキット王太后は、現役の国家元首として世界最長(当時)の70年にわたり在位したプミポン前国王に連れ添い、タイ国民6500万人に親しまれた。
王太后は2012年に脳卒中で倒れて以来、バンコクの病院で療養生活を送っていた。入院先のチュラロンコン病院は、前国王夫妻の祖父ラーマ5世(1910年死去)の名にちなんで付けられた。シリキット王太后はプミポン前国王のいとこにあたる。
1948年、パリでプミポン国王と出会う
シリキット王太后は1948年、パリでプミポン国王と出会った。プミポン国王は5歳からスイス西部のヴォー州ローザンヌで育ち、ローザンヌ大学に通っていた。シリキット王太后は、シャム王国(タイ、当時)のチャンダブリー・スラナート王子の娘で、まだ16歳だった。
王太后は当時、パリでクラシック音楽とフランス語を学んでいたが、プミポン国王の勧めで、ローザンヌの寄宿学校アンスティチュ・リアント・リーヴで学業を続けることにした。1949年夏、国王夫妻はローザンヌ郊外のピュリーで婚約した。
結婚式は1950年4月28日にバンコクで執り行われた。プミポン国王は1946年、実兄アーナンタ国王の急逝により王位を継承していたが、戴冠式が取り行われたのは1950年5月5日。これに伴い、シリキット王太后は正式に王妃となった。
「アジアのジャッキー(ジャクリーン)・ケネディ」と呼ばれたファッショニスタのシリキット王妃は、あらゆるファッション誌の表紙を飾った。王妃のドレスは、仏高級ブランド「バルマン」の創始者ピエール・バルマン氏がデザイン・制作した。「写真家の王様」と呼ばれたプミポン国王も、画家や写真家としてキャリアをスタートさせた頃、シリキット王妃をよくモデルにしていた。
1950年、スイスに戻る
国王夫妻は結婚式と戴冠式の3カ月後、プミポン国王の学業(法学)再開のため、ローザンヌに戻った。レマン湖畔のピュリーに、プミポン国王の祖母でラーマ5世の妻の名を冠した新居「ヴィラ・ワッタナー」を構えた。
プミポン国王が大学を卒業すると、夫妻は1951年11月、夜行列車でイタリア・ジェノヴァへ向かい、蒸気船に乗り継いでタイに帰国した。スイスの雑誌「イリュストレ」は、「さようなら、スイス!」と題し、夫妻の特集記事を掲載した。
シリキット王妃は帰国前の1951年4月5日、ローザンヌのモン・ショワジ病院でウボンラット王女を出産した。
王妃はさらに3人の子どもをバンコクで出産している。ワチラロンコン王子(現国王ラーマ10世)、シリントーン王女、チュラポーン王女だ。
1956年、摂政を務める
プミポン国王は結婚から6年後の1956年秋、タイ仏教の戒律に従い出家した。剃髪(ていはつ)し、オレンジ色の袈裟(けさ)に裸足という姿でバンコクの路上で托鉢(たくはつ)。寺院で修行生活を送った。その間、シリキット王妃が摂政として公務を担った。
国を忠実に支え、国民から熱烈な支持を得たシリキット王妃を称え、タイ政府は20年後、王妃の誕生日である8月12日を国の祝日とし、「母の日」に定めた。シリキット王妃はタイ赤十字社の総裁として慈善活動にも力を注いだ。
1960年、再びレマン湖畔へ
プミポン国王夫妻は1960年7月15日、4人の子どもとともに、米パンアメリカン(パンナム)航空のボーイング707機でジュネーブに降り立った。一家はブドウ畑で有名なラヴォー地区のピュイドゥー・シェーブルに立つ「ヴィラ・フロンザレ」に滞在した。随行員は50人。これは長期休暇ではなく、欧州各国を歴訪するためだった。
プミポン国王夫妻は、欧州各国の王室や国家元首と親交を結んだ。英国・ロンドンでのエリザベス女王との会見を皮切りに、デンマーク国王とノルウェー国王を訪問。ベルギー国王や仏ヴェルサイユ宮殿で会見したシャルル・ドゴール将軍とはフランス語で懇談した。さらにはオランダのユリアナ女王、スペインのフランシスコ・フランコ将軍、ヴァチカンの教皇ヨハネ23世を相次いで訪問した。
シリキット王妃はこれら公式行事の正装を用意するため、バルマン氏をラヴォーに呼び寄せた。仏雑誌「パリ・マッチ」の記者も同行し、王室特集を組んだ。
シリキット王妃は当時、非常に高価な宝飾品を身につけ、バンコクの土地の3分の1を所有する億万長者だった。しかし、国王夫妻は専用船でも専用機でもなく、民間航空機で移動していた。
スイス連邦議事堂を訪問
1960年8月29日、ヴォー州警察が厳重な警備を敷くなか、正装したプミポン国王夫妻がスイスの連邦議事堂を訪れた。スイスのマックス・プチピエール大統領は、「両国はこんなにも違うが、自由への愛で結ばれている」として両国の絆に言及した。
ヴォー州政府は、プミポン国王夫妻をローザンヌの農産物見本市「コントワール・スイス」に案内した後、州庁舎のあるサンメール城に招いた。ヴォー州の日刊紙は、見本市の訪問について、「シリキット王妃は特に家庭用品と洗濯機に興味を示された」と報じた。
国王一家はスイスアルプスでクリスマスを過ごした後、1961年1月17日、スイスを発ち、バンコクへの帰路に就いた。その後、夫妻がスイスを訪れたのは、1964年10月にローザンヌで開催されたスイス博覧会を視察したときだけだ。プミポン国王は2017年に死去するまで、幼少期を過ごしたスイスを再訪することはなかった。国王はかつてこう話していた。「私たちは普通のスイスの子どもだった。普通の人々と同じように質素に暮らしていた」
シリキット王太后はしきたりに従い、死去から1年後の2026年10月、バンコク中心部で、白檀(びゃくだん)の火葬台で荼毘(だび)に付される予定だ。火葬によって、故人の魂は成仏すると考えられている。政府関係者と公務員は火葬式まで喪服を着用する。観光客も90日間は喪へ配慮しなければならない。
編集:Pauline Turuban、仏語からの翻訳:江藤真理、校正:宇田薫
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