EUが牙を向くスイスの賃金保護制度 実は羨ましい?
スイス・欧州連合(EU)間の枠組み条約交渉は2021年春以降、暗礁に乗り上げている。ボトルネックになっているのはスイスの賃金保護制度とされるが、実際に締め付けているのはスイスの労働組合ではなく、EUの労組だ。
スイスとEU間の交渉はストップしたままだ。スイス側ではEU関係の書類は引き出しの中にしまい込まれ、10月22日の連邦議会選挙が終わるまで取り出されそうにない。
イグナツィオ・カシス外務相は、スイス連邦内閣は11月にも交渉再開に向け重い腰を上げるべきだと考えている。
誰もが望む賃金保護
だがスイス国内では、右派と左派の間に亀裂が走っている。その原因はEU側の2つの要求だ。1つは、スイス・EU間の紛争を欧州司法裁判所(ECJ)が管轄すること。右派政党は「よそ者裁判官」として強硬に反対し、他の政党も大半が支持していない。
もう1点は賃金保護制度の緩和だ。EUからの労働者がスイスで低賃金を強いられ、スイスで賃金ダンピングを引き起こす可能性がある。20年来スイスの賃金保護制度を擁護する左派政党が急先鋒に立つが、事実上すべての政党が同じ立場を取る。
つまりこの賃金保護制度は最大の難所であり、スイスの立場上譲ることのできない核心部分といえる。この仕組みを守ることについては国内の意見が一致している。
EUが解体を目論む賃金保護制度とは何か?その内容を理解することは、スイス・EU関係を読み解くカギになる。
欧州の労働組合も益する闘い
賃金保護制度を守る戦いの最前線に立つスイス労働組合連合(SGB/USS)は、欧州の労働組合のためにも闘っている。スイスのきめ細やかな賃金保護制度は、本来欧州が牙を向ける相手ではなく、欧州労組の模範となるべき制度だ。欧州労組も同じような仕組みを望んでおり、スイスが構築したモデルをEU全体に広めたいと考えている。スイスが妥協しないことは、欧州にとっても戦略的に重要な意味を持つ。
連合のルカ・チリリアーノ中央書記長はある講演でこう熱弁した。「我々のパートナーである欧州労働組合連合(ETUC)が我々に求めるのは、絶対に首を縦に振らないことだ。ノーと言い続けろ、と。なぜなら、EU労組はEU内で付随措置の拡大を望んでいるからだ。もしスイスが屈すれば、EUにおける付随措置の将来はなくなる」
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高みを目指す
連合の広報担当ウルバン・ホーデル氏はswissinfo.chに対し、「疑わしいケースでは、欧州委員会は常に市場の側に立つ。だからこそ我々は欧州全土の労働組合と協力して、労働者の利益になるよう域内市場を発展させる必要がある」と語った。
アイルランド国立大学ダブリン校で欧州労使関係を研究するスイス人教授、ローランド・エルン氏も同調する。「これはスイスとEUの間の紛争のように見えるが、実際は労働紛争だ。当然ながら国境を越える」
もう少し詳しくみてみよう。
スイス・EU間の120本以上の二国間協定を束ねる「制度的枠組み条約」の締結に向けた交渉は、7年間にわたる攻防の末に2021年5月に打ち切られた。その後10回の予備交渉と30回以上の協議を重ねたが、何の成果も得られなかった。話し合いに関わった人は誰しも「問題になっているのはスイスではない」と話す。対立しているのは二国間ではなく、労使だという。
だが労組関係者の声に耳を傾けると、それは意外でもなんでもなく、むしろ当然のことだと分かる。左派には国境を越えて結びつく「国際的連帯」を志向するDNAを持っているからだ。
欧州化に伴う影響力拡大
スイス社会民主党(SP/PS)のレベッカ・ヴァイラー共同幹事長はすでに10年前の博士論文で「スイスの労働組合は近年、国際的な取り組みを強化している」と結論づけていた。その傾向はその後10年でさらに顕著になった。ヴァイラー氏はよるとスイスの左派、労組、社会民主党がこれほど国際的ネットワークを築いたことはなかった。
ヴァイラー氏の364ページに及ぶ博士論文は「スイス労働組合と欧州(1960~2005年)」と題され、過去10年間のスイスの対欧州外交を予言する内容となっている。例えば「スイス政治の欧州化に伴い労働組合は影響力を獲得」し、その影響力は2000年代初頭に効果を発揮したと指摘した。
歴史的な偉業
具体的には、スイス・EU間の二国間協定の締結過程で労組は「実質的パワープレー」を展開し、長年求めてきた包括的な賃金保護制度を1999年協定と2004年協定に導入させることに成功した。
当時、右派は脅迫じみた反対を見せた。だがスイスがEUと合意するには左派の同意が不可欠で、「労組は『絶好の機会』を捉えて要求を押し通した。そうでなければ過半数を得ることはできなかった」とヴァイラー氏は論文で総括した。
こうして約20年前、スイスの賃金保護制度が実現した。スイス労働組合にとって偉大な功績であり、現在に至るまで牙城を築く。
背景にはスイスと欧州との賃金格差がある。専門家が「賃金の崖」と表現するほどの大きな格差だ。現在、スイスの平均給与は手取りで約6000フラン。これが隣国のドイツは3300フラン、オーストリアは2700フラン、フランスは2600フラン、イタリアは1700フランに下がる。これら4カ国はEUの単一労働市場の一員だ。
その結果、イタリアの左官業者はスイスで3倍安く仕事を引き受けることができ、それでもイタリア基準では十分な収入を得られる。だがそうなると、スイスの左官業者も賃金を抑えなければ対抗できなくなり、スイスの賃金相場に下方圧力がかかる。いわゆる賃金ダンピングだ。
スイスの左官業者がスイスの基本給を与えなければならないのに対し、イタリアの左官業者はそうではないとすれば、由々しき不公平となる。だがひとたび賃金ダンピングが起これば、雇用主も労働者もいずれ共倒れになる。
経営者と労組が当初から妥協点を見出したのはこのためだ。最大のライバル同士だが、全く異なる事情から公正な価格と賃金という共通の利益関心を持っていた。
民主主義へのロングパス
妥協点が結実したのはスイスの直接民主制の功績といえる。連邦議会の決定はレファレンダム(国民表決)制度によって国民投票で覆される可能性があるため、議会は最初から妥協点を探らざるを得ない。そうして生まれたスイスの賃金保護制度はダイヤモンドのように精密に磨き上げられ、本質的な形を一切変えずに輝きを放っている。
実際、スイスのような賃金保護ルールは、他のヨーロッパの国では実現できなかっただろう。スイスにはもう1つ、連邦政治における労組の影響力と言う特徴があるからだ。前出のエルン教授は、「スイスほど多くの現職・元労働組合員が国会議員を務めている国は世界でもほとんどない」と話す。
一方で、EUも変化を遂げてきた。連合のチリリアーノ氏が嘆いた「労働者を商品とみなす新自由主義的なEU労働市場」ではもはやない。
EUの変化
EUは2019年、域内の派遣ガイドラインを厳格化した。2022年には最低賃金ガイドラインが適用された。スイスの労働組合員で、長年EU労組の理事を務めたアンドレアス・リーガー氏はこうした経緯を「社会的カーブ」と表現する。「歴史的に見てパラダイムシフトとなった」。現在、EUの規則には契約上の罰則も含まれているが、これもスイスの働きかけの成果とみている。
EUに変化をもたらしたきっかけの1つは英国のEU離脱(ブレグジット)だ。英国も賃金の崖を抱えていたが、何も対策を講じていなかったために恨みと歪みが生まれ、脱退につながった。EUは、賃金保護を講じなければ加盟国をEU離脱に追い込む可能性があることを学ばされた。
欧州委員会で対スイス外交の責任者を務めるマロス・セフコビッチ氏は2023年春にスイスを訪問した際、地元の労組に「非後退条項」を提案した。EUの賃金が下がったとしても、スイスがスイスの賃金保護水準を下回る必要がないことを保証する条項だ。
だがセフコビッチ氏の口約束はほとんど偶発的なものだった。条約草案に落とし込む作業はスイスを袋小路に追いやっている。
EU側は域内の労組から圧力を受けている。EU労組はスイスのようなきめ細かな規則を望む。例えば労組と企業が一緒にルールを設定し、共同で監視することを求めている。公法ではなく私法に基づく労働協約を一般的なガイドラインとすることや、国境を越える企業に不正抑止と刑事訴追を容易にするための保証金を納める義務を課すことも要望する。
それらはまさに、スイスがこれまでに築き上げてきたルールだ。
EUでこれらのルールが実現するなら、EUはスイスの賃金保護制度を否定しているわけではないことを意味する。むしろその逆なのだ。
独語からの翻訳:ムートゥ朋子
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