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広告の先駆者フランソワ・アンリ・ラヴァンシー・クラークの多彩な顔

ラヴァンシー・クラーク
フォノスコープの録画に映ったラヴァンシー・クラーク。手にするのは、視覚障がい者が従事する同氏の作業所で作られたブラシだ(1893年) Präsens-Film

PRイベント、コンテンツマーケティング、プロダクトプレイスメント…。広告の先駆者フランソワ・アンリ・ラヴァンシー・クラークは、こうした広告手法が1900年以降にスイスの広告業界に定着する前から、既に実践していた。スイスに映画を持ち込んだのもラヴァンシー・クラークだ。

初めて歴史に登場した頃の映画は、今のスマートフォンで撮るビデオに似ている。撮影時間はとても短く、内容は日常風景の記録だった。スイスの初期映画の1本は、1896年のアルプスの牧上りを映している。

素朴な山暮らしの人々が見守る中、カメラに向かって歩いて来るヤギや牛たちの行列の背景でアルプホルンの音色が響き渡る。群衆の中には、上品な身なりをしたひときわ目立つ男性がいる。1頭の牛の尻を叩き、通行人に指示を与えているようだ。

シルクハットのその男性こそ、この映画の制作者フランソワ・アンリ・ラヴァンシー・クラーク本人だ。映像の中の人だかりや動物の行列は演出されたもので、背景に映る木造家屋は、1896年のスイス博覧会で展示された「スイスの村」の一部だ。

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元々、ラヴァンシー・クラークはこの小さな人工の「スイスの村」で、映画を上映するつもりだった。しかし、上映場所は遊園地の中へと追いやられてしまう。その理由は、ラヴァンシー・クラークが自動販売機で収入を得、視覚障がい者が従事する工房で作られた製品を販売し、英国産の「サンライトせっけん」の宣伝をしていた人物だったからだ。作り物の「スイスの村」は本物の「スイス」に見える必要があり、スイス以外の生産物に居場所はなかった。

ラヴァンシー・クラークは、前面にパゴダ(仏塔)、背面にアラビアの喫茶店を模した自身の「妖精の宮殿」で、映画を上映した。折しもリュミエール兄弟が発明したシネマトグラフ(撮影用カメラと投影機を一体化した映画機械)が世界で初めて発表されたわずか数カ月後のことだった。ジュネーブの同博覧会で披露された視覚的センセーションを狙った数々の出し物の中で、ミラーハウスや風景のパノラマ図と並び、映画館も少しずつ頭角を現していった。

しかし、映画創成期から同活動に参加し熱狂していた映画人ラヴァンシー・クラーク自身も、この動く画像を完全にあてにしていたわけではなかった。彼の「妖精の宮殿」には、客寄せとして他にも視覚の錯覚を利用した見世物や人間に似せた時計製作ロボットが置かれていた。更に、美人コンテストや断食芸人(19世紀末~20世紀初頭の欧州で流行した、興行期間中、長期間の断食を行う姿を見せる芸人)も用意された。

1896年のスイス博覧会に展示された「妖精の宮殿」
1896年のスイス博覧会に展示された「妖精の宮殿」。スイス初の映画館のような建物だった。中はせっけんの宣伝であふれていた “Bibliothèque de Genève”

ラヴァンシー・クラークが上映した映画は、日常風景を映したわずか数分間の映像だった。入線する電車や他の短時間の動画など、リュミエール兄弟制作の映像の他にも、ラヴァンシー・クラーク自らの制作による同博覧会の録画なども含まれる。

コメントは同氏が自ら吹き込んでいる。あるジャーナリストは「しゃべり過ぎ」と報じたという。ラヴァンシー・クラークには何かと語りたいことがあったようだ。

宣教師からせっけん販売へ

ラヴァンシー・クラークは、1848年にフランソワ・アンリ・ラヴァンシーとして、レマン湖畔のモルジュに生まれた。パリで法学を学んだ後、普仏戦争では救急隊員として赤十字の活動に協力した。信心深い家族の元に生まれたラヴァンシーは、1871年に聖書を片手に南仏に赴き、その後、宣教師としてエジプトに旅している。

エジプトでは、目が不自由な人への援助活動に着手した。1878年にはパリで視覚障がい者会議を開催し、そこでブライユ点字が他の案を退け、共用点字として認められた。

将来の妻と出会ったのも同会議だった。英国出身で、代表人としてパリに来ていたジェニー・エリザベス・クラークだ。2人は結婚し、「ラヴァンシー」姓に妻の名字「クラーク」を付けることにした。当時としては非常に珍しかったが、粋な選択だ。

ラヴァンシー・クラークは、視覚障がい者が働く工房のネットワークを構築した。この視覚障がい者の自立援助にかかる資金は、工房で製造された物品の販売と、後援者のネットワークによって賄われた。定期的に寄付していたフランスの女優サラ・ベルナールの他にも、多くの工場経営者や慈善家が寄付を行った。

1880年代終盤、ラヴァンシー・クラークは自動販売機で販売できる商品を求め、寄付者の1人であるウィリアム・リーバに相談を持ちかけた。リーバは英国最大のせっけん工場の経営者だった。

リーバの「サンライトせっけん」で最も革新的な点は、パッケージだ。当時せっけんは棒状の物を切り売りしていたのに対し、「サンライトせっけん」は1個ずつ魅力的に包装して販売された。

こうして、ラヴァンシー・クラークは大陸最初のリーバ・ブラザーズの営業権保有者となり、精力的に「サンライトせっけん」ブランドの広告を行った。1889年にはレマン湖畔で宣伝を目的とした大会を開催。700人の洗濯屋が集まり洗濯の腕を競った。洗濯に使うのは、もちろん「サンライトせっけん」だ。

ラヴァンシー・クラークはまた、報道陣がこの大会について記事を書きたくなるように働きかけた。大会の賞は1位の洗濯屋だけでなく、同大会について最も独創性に富んだ記事を書いたジャーナリストにも与えられたのだ。更に、その後数年間、タイトルページの背景にシヨン城をあしらった「サンライト年鑑」を定期的に発送した。これは現在で言う、コンテンツマーケティング・マガジンに当たる。ラヴァンシー・クラークは、世界でも初期のスピンドクター(広報担当者など、情報操作に優れ、人々の心理を操る人物)だったのだ。

映画上映機の競争

1890年代には、動く画像を記録に残そうとする多くの試みが、先を競うように次々と行われた。写真に長年関心を抱いていたラヴァンシー・クラークは、こうした動きを単に興味本位で見物するだけにとどまらず、ジョルジュ・ドゥメニーの実験を金銭的に支援することで貢献した。ドゥメニーは円盤状の装置を用い、数秒間の映像を上映できる機械を発明していた。

パリでこの忘れ去られた映画技術の先駆者の近所に住んでいたラヴァンシー・クラークは、共に「一般社団法人フォノスコープ協会」を設立した。ドゥメニーの機械を使った最初の録画の1本には、ラヴァンシー・クラークが、自身の視覚障がい者の作業所で作られたブラシで靴を磨く姿が映っている。ここでも、プロダクトプレイスメントを欠かさない。

しかし、初期の自作映画の撮影には、より長時間の映像製作が可能なリュミエール兄弟のシネマトグラフを用いた。スイス博覧会で上映したものもそうだ。妻ジェニー・エリザベスとその姉妹が洗濯する姿を映した「サンライトせっけん」のイメージビデオは、7万人が同博覧会で鑑賞した。

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スイス博覧会の1896年以降、ラヴァンシー・クラークは特に君主制に夢中になった。ロンドンではビクトリア女王の在位60周年記念式典を撮影し、ベルンではシャム国王ラーマ5世にカメラを持って同行した。また庶民の行事にもレンズを向け、バーゼル・ファスナハトやスイス国立博物館の開館、そして数々のスイス観光地の様子を撮影している。

やがて自身の映画を引っ提げてスイス中を興行した。「サンライト年鑑」を提示した者は入場料半額、また「サンライトせっけん」の保証マークを提示した学童は無料になった。休みなく働くラヴァンシー・クラークは「芸術のための芸術」には興味がなく、自身の映画に「サンライトせっけん」のロゴマークを繰り返し映し込むことも忘れなかった。

1898年、「サンライトせっけん」の大陸初支店であるスイス・オルテンのヘルヴェティアせっけん工場の総支配人に就任。膨大なマーケティングのアイデアがあり、動物園の象によるせっけんのサンプルの配布も考えていたが、彼には日常的な業務への関心がなさすぎた。1900年、ラヴァンシー・クラークは取締役会によって総支配人から引きずりおろされ、同志リーバとも数年間争うことになった。同年、長男を結核で亡くしてもいる。

それでも、まだ彼の潮時ではなかったようだ。カラー写真の開発に粘り強く取り組む傍ら、新たなチョコレート事業「ショコバナナ」を興し、自身の前のチョコレート事業よりももう少し成功を収めた。1913年にはマルセイユで別のせっけん工場「ラ・ジラフ」の責任者に就任した。

1918年の終戦記念祝典後に起きた転倒による負傷が元で、ラヴァンシー・クラークは1922年にカンヌの別荘で生涯の幕を閉じた。追悼文では何よりもせっけんの広告パーソンとして描写されており、映画芸術への貢献は顧みられなかった。技術にまつわる物語は、早く忘れられてしまうものだ。

国からの栄誉も授けられなかった。それどころか、第一次世界大戦でもフランスで赤十字の活動に加わったことを理由に、晩年には刑事記録まで作成された。こうしてスイスの映画・広告の先駆者ラヴァンシー・クラークは、書類上は「敵国軍に属したスイス人」として没し、忘れ去られる運命をだどった。

独語からの翻訳:アイヒャー農頭美穂

バーゼルのティンゲリー美術館では、「Kino vor dem Kino(仮訳:映画の前の映画)」展を開催中。今月29日まで。

映画配信会社プレゼンツ・フィルムの新作「リヒトシュピーラー(Lichtspieler)」の題材としてもラヴァンシー・クラークは取り上げられた。

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