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アッペンツェルの「ポピュラー音楽の王」

アノルト・イナウエンとイダ・ズーター。チューリヒの写真館で撮影された

アノルト・イナウエンとイダ・ズーター。チューリヒの写真館で撮影された

歌手アルノルト・イナウエンがいることは地元アッペンツェルでは有名だった。しかし彼がヨーロッパで初めてドイツ語の歌をレコード化した音楽家だったということを知る人は少ない。

このほど出版された『小作人 ( Bauernknechtlein ) 』が、その歴史を明らかにした。

小作人から歌手へ

 「レコードのスターとしてイナウエンのことは、関係者ばかりではなくアッペンツェル全体が誇りに思ってよいことだ。農家の生まれのイナウエンは、若い時にスイス国外へ移住しテノール歌手として成功を収めた。彼ほど音楽的なカリスマを持った歌手はいなかった」
 『アルノルト・イナウエン/アルノルト・フォン・デル・アウエ ( Arnold Inauen/Arnold von der Aue ) 』の出版記念式典でアッペンツェル博物館のキュレーター、ロラント・イナウエン氏は語った。

 アルノルト・イナウエンが忘れ去られずにいるのは、彼の甥の息子にあたるアルミン・マツェナウアー氏によるところが大きい。マツェナウアー氏は子どものころからイナウエンに興味を持ち、長年にわたってきめ細かい調査を続けてきた。2年前に初めてイナウエンについて短い本を出版したが、情報はさほどないままの出版だった。
「いまでも、まだわかっていないことは多いが、今回の出版で象徴的ではあるが、イナウエン大おじを故郷に連れ戻したようなものだ」
 と言う。

 実名がアルノルト・フォン・デル・アウエのイナウエンは12歳の時、ドイツに小作人として家から出されたことは知られていた。裕福な婦人の援助があり、アルノルトは後にフランクフルトの音楽学校で音楽を学び、ヨーロッパやアメリカの舞台を踏むようになった。しかし、1914年以降のことは分かっていない。
「どこでどのように亡くなったのかは分かっていない」
 とマツェナウアー氏は言う。

とろけるような声

 膨大な時間をかけて新聞記事やインターネット上の情報を調査したところ、チューリヒ州タルヴィル市 ( Thalwil ) のレコード収集家ハンス・ペーター・ヴェズネール氏に出会う。高校教師を引退したヴェズネール氏はイナウエンのことはあまり知らなかったが、マツェナウアー氏が知らないレコードの録音について熟知していた。こうして2人は協力し合うようになる。ヴィズネール氏は1901年から1945年までに発売されたレコード1万枚の収集家でもある。

 1986年、ヴェズネール氏は初めてイナウエンのレコードに出会う。シェラック製のレコードで「アルプスの雪が溶ける時 ( Wenn der Schnee von den Alpen niedertaut ) 」をほかの収集家と交換したという。心に響く声で、コンサートでは女性が涙を流したと新聞記事にはある。ヴェズネール氏はその後、蚤の市や骨とう品店で見つけたり、収集家との交換を通したりして13枚のレコードを集めた。イナウエンの歌は1901年から1905年まで、ベルリン、ミラノ、ニューヨークで録音され、合計14枚ある。

シェラック製レコードのパイオニア

 歴史的に見て、音楽家としてのイナウエンの評価は高くなっている。
「ヨーロッパ大陸で初めてドイツ語のレコードを録音した、パイオニア的存在」
 とヴェズネール氏は評価する。

 イナウエンが録音マイクの前で歌ったのは1898年9月30日。ロンドンでヨーロッパ初の録音が始まってたった6週間後のことだった。1902年には、ベルリンでスイスの国歌を録音している。

 オペラ歌手としてイナウエンは「重要ではない、いや、むしろ良くない歌手だった」とヴェズネール氏。彼は演技ができなかったのだ。しかし彼の声は、カルーソとはいかないまでも、非常に素晴らしかった。そのため、レコードの録音やステージで歌ったのだろうとヴェズネール氏はみる。

 イナウエンはワーグナーの「パルツィファル」のアリアを歌う一方で、いろいろな言語で民族音楽も歌い、ほかの歌手が嫌がるヨーデルさえ歌った。彼は多様性があり控え目だったという。「聴衆が望む歌を歌った」とヴィズネール氏は言う。

100年前の音色

 『アルノルト・イナウエン/アルノルト・フォン・デル・アウエ 』は14曲を収めたCD付き。100年前の録音のコピーだ。非常に珍しいが、今の完璧なHi Fi音質からは程遠い。とはいえ、声量、情熱は100年たっても変わらない。イナウエンがドイツやアメリカで公演し、「珍しい力と優しさを同時に持つ声」と批評されたことは間違っていないと分かる。

 マツェナウアー氏はその著作の最終章には書いていないが、ヴィズネール氏はまだ見つからないレコードを求め歩く。アリアのレコードが欲しいという。
「アリアは珍しく、収集家の垂涎の的。あることはあるが、どこにあるのか。いつか見つかるかもしれない。欲しいので探し続けている」

ガビ・オクセンバイン 、アッペンツェルにて、swissinfo.ch
( 独語からの翻訳、佐藤夕美 )

ヨゼフ・アントン・イナウエン ( Joseph Anton Inauen ) 略歴

1865年 アッペンツェルに生まれる。
1866年、1867年、と続けて弟誕生。
1867年 母が病死。父は再婚し、さらに8人の兄弟が生まれる。イナウエンは冬季のみ、半日学校に通う。父が破産し、農地を売却。
1877年 12歳でドイツへ小作人として出される。
1886年 兵学校へ入学するためアッペンツェルへ帰る。ウエーターとしての能力を発揮。兵学校卒業後、ドイツの合唱隊に加わり、ロンドン、サンクトぺテルスブルク、ハンブルクへ演奏旅行。
1890~1893年 フランクフルトのラフ音楽学校 ( Raff-Konservatorium ) に学ぶ。ハンブルクの裕福な婦人がイナウエンを援助した。
1898年 ロンドンで録音する。ヨーロッパ大陸出身の初めての歌手として、また、ドイツ語での録音は世界初となった。
1903年 エリス島、ニューヨーク旅行。歌手学校を開設するが、2カ月で閉鎖。アメリカ全土を演奏旅行。1910年までに、40州、80都市を回った。
1914年 中央西部から最後の音信があった以後、消息不明

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 『アルノルト・イナウエン/アルノルト・フォン・デル・アウエ ( Arnold Inauen-Arnold von der Aue- vom Bauernknechtlein aus Appenzell zum Opern- und Konzertsänger und Schallplattenpionier ) 』

アルミン・マツェナウアー著
アッペンツェーラー・フォルクスフロイント印刷 ( Drukerei Appenzerller Volksfreund ) ( ドイツ語 ) から2009年11月、出版。

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