スイス軍用機発注の舞台裏 F-5タイガーの場合

1978年9月、ルツェルン州のエメン軍用空港で米空軍の輸送機C5-Aギャラクシーから荷下ろされるスイス空軍のF-5タイガー戦闘機。最初のタイガーは完成した状態でスイスに到着し、残りはエメンの航空機工場で組み立てられた Keystone

軍用機の購入は複雑な任務だ。国内政策は外交政策と、防衛政策は経済政策とぶつかり合う。中立をうたうスイスではさらにこれがややこしくなる。スキャンダルもほぼ必ずついて回るからだ。ところで戦闘機はどうやって調達するのだろう?ほぼ未検証の資料をもとに、F-5タイガー戦闘機発注の舞台裏をのぞいた。

このコンテンツは 2020/08/24 06:30

議事録の発言

「このプログラムは、ライセンス生産の一部を失ったスイス産業を助ける親善的な意図を持つ。このプログラムが失敗すれば、これまで順調だった航空機調達に悪影響が出る恐れがある。将来の航空機調達を考慮しても、相殺取引の失敗でタイガー事業に影を落とすようなことがあってはならない」

1977年9月5日付、軍備委員会の議事録より

End of insertion

1972年9月9日は、スイスのルドルフ・グネーギ国防相にとって忘れられない日となった。連邦議会はこの日、米国製のA-7コルセア戦闘機60機の購入を経済的な理由から覆したのだ。

そのためスイスは当面の間、英国製のハンター戦闘機の中古品30機の購入で手を打つしかなかった。だが、これは空軍の近代化の問題を先延ばしにしただけだった。

「貧乏人の戦闘機」

1960年代半ばに起こった「ミラージュ事件」は、(計画によれば)核兵器をもってしても「スイス空軍は領土内の潜在的な敵を攻撃できる」という幻想を打ち砕いた。ミラージュ事件とはフランスのミラージュ戦闘機100機の購入をめぐり、予算の大幅超過が発生、最終的には57機しか購入できなかったというスキャンダルだ。そのためスイスは新たな戦略として、主に地上部隊を援護するためのジェット機投入を想定した。

この新たなシナリオをベースに1972年の大失態からの脱却を模索したが、特に世界経済の不況を背景に、金銭面での不安がつきまとった。つまり新機購入のコストを抑えなくてはいけないということだ。そして調達取引はできるだけ早く完了することが求められた。

陸軍専門家らの検証の結果、条件を満たす航空機のタイプが1つだけ即座に特定された。民兵パイロットでも操縦できる軽量戦闘機、米ノースロップ製のF-5タイガー戦闘機だ。

特に、タイガーは競合機よりはるかに安価だった。スイス政府は1975年8月に「タイガーは我々の予算で十分な数を購入できる唯一の選択肢だ」と書き記している。(資料

だがこの選択は論争を巻き起こした。全国紙は「貧乏人の戦闘機」とこき下ろした。しかし政府や世論を悩ませたのは、国の評判にかかわる別の問題だった。

この記事は、スイスの外交文書研究所(Dudis)と協力して執筆した「スイス外交物語」シリーズの一部です。同研究所はスイス人文・社会科学アカデミーに属し、1848年のスイス建国以来のスイス外交史・国際関係史に関する独立した研究拠点です。 Dodis

ロッキード事件の影で

この時、もう1つのスキャンダルが起ころうとしていた。米国では、ウォーターゲート事件の調査中に、ノースロップ工作員の外国における不審な行動が浮上したのだ。事態はやがてロッキード事件になだれ込む。多くの米国の武器製造業者が関与し、複数の西側諸国の政府を揺さぶった大規模な汚職事件だ。

ロッキード事件の痕跡は、スイスにもつながっていた。事件の重要人物2人がスイスに在住し、ノースロップ社とビジネス関係にあったためだ(資料12)。スイス外務省は、調査の妨げとなるスイスの法律について―おそらく銀行秘密への攻撃と併せて―米国が強く批判してくることを恐れた。(資料)。

この汚職疑惑は、州政府によるタイガーの選択にも影を落とした。1975年6月、議会の要請のうち4件(資料12)は、ノースロップ事件の影響を懸念する内容だった。そして複数の党が調査を求めた。

しかし連邦検察庁は(判断を下すには)捜査結果が不十分であるとの見解を示した。そのため、この論争を鎮静化させるべく、連邦議会はベルン州のシュテファン・トレヒセル検事に非公式の捜査を委託した(資料)。

1978年10月30日、最初のF-5Aタイガー戦闘機30機がスイス空軍に引き渡され、ベルン州のマイリンゲン軍演習場で記念式典が行われた Keystone

不正の根拠なし

トレヒセル検事に与えられた時間は1カ月足らずだった。捜査は、主に関係者への聞き込みを中心に行われた。すべてが正しく、違法行為の証拠はないという結論に至った検事は1975年8月18日、スイス政府に報告書を提出した(資料)。

このトレヒセル検事の判断は、その後の議会討論で繰り返し取り上げられることになる。たとえ左派や資本民主主義派の一部の代表が、人間関係の不明瞭な点や、腐敗した会社との取引をめぐる根本的な問題に目を向けさせようと試みたとしても(資料12)。

「1970年代は、スイスの金融センターに対する問題意識が高まっていた」とスイス外交文書研究所(Dodis)のトーマス・ビュルギッサー氏は言う。「しかし、議会の議論はまだ現実的なアプローチが多数派だった」。最終的には、F-5タイガー戦闘機72機購入用のローン11億7000万フランが議会の賛成多数で可決された。

産業界への支援

しかし、政府のプロジェクトが成功を収めるには、ロッキード事件の克服以外にも超えるべきハードルがあった。おおむね外資系企業の懐に消えていく十数億フランのローンを議会やビジネスで消化するのは、とりわけ金銭的に引き締めを求められる不況時には容易ではない。また多くの雇用も危ぶまれていた。

しかしライセンス生産という選択肢はなかった。ミラージュ事件でのコスト爆発の一因になったためだ。そのためスイスは「相殺取引」に打開策を求めた。つまり米国に支払ったお金の少なくとも一部はスイスに還元されるという取引だ。

スイス政府は、製造元のノースロップとゼネラル・エレクトリック(エンジン供

給元)、そして米国政府に、スイス企業にも業務を委託するよう義務付けている。グネーギ国防相とジェームズ・R・シュレシンジャー米国防長官は1975年7月、タイガー戦闘機の費用の少なくとも3割はスイスへの業務委託によって返済するという意思表明書に署名した(資料)。

ところが、困難はまだ続いた。

スイスの兵器が韓国に流出?

「相殺取引は非常に複雑でデリケートな問題だ」と、Dodisのサシャ・ツァラ所長は言う。「こういった取引は、特に経済界において、極めて高額な軍事費支出のコンセンサス構築に役立つ。しかし外交政策上、特に中立性という観点においては問題になり得る」

連邦政府は当初から、米国製の軍需品購入に伴う潜在的な問題を認識していた。スイスの法律は、軍事機器の輸出に明確な制限を設けている。連邦軍部は「F-5に必要な軍需品とみなされる下請け品が、米国経由で例えば韓国に流れることは [...] 許されない」と既に1974年7月に明記している(資料)。

一方で、スイス軍需品の販売を不当に妨げないよう、連邦内閣は1977年1月に軍需品に関する連邦法の規定緩和を決定。スイスの起源が明らかでない大量の部品に関しては、エンドユーザーの認証義務(エンドユーザー宣言)をなくすことを認めた。(資料)。

だが連邦当局の努力にもかかわらず、相殺取引は思うようには軌道に乗らなかった(資料)。そして1977年初頭、ワシントンではジミー・カーター率いる新政権が誕生する。スイス外交にとって、必要なコネクションを新しく確立する必要性が生じた。しかし米ドルに対しフランが上昇したことを受け、状況は困難さを増した。

しばしスイスに広がる晴れ間

そんな中、1979年2月のグネーギ国防相の訪米により、状況が好転し始める。米国からの注文額はその時点で合計1億ドル超。戦闘機費用の3割負担という目標が射程内に入った(資料)。

1978年10月に初代タイガーがスイス軍に納入され、1981年4月に最後のタイガーが到着した。この時点で相殺取引の目標シェアを大きく上回っていた。同年、国会はさらに38機追加購入するための融資案を可決。この取引もまた、相殺取引に関する合意を伴うものだった。

ノースロップ製の戦闘機購入により、当初の騒動に加えタイガーの戦闘能力が疑問視されていたにもかかわらず、スイス空軍はミラージュ事件を乗り越え、新たな段階に進むことができた。だが戦闘機の購入をめぐる議論や論争は、今後も繰り返し燃え上がることだろう。

共有する