アニメ「アルプスの少女ハイジ」の生みの親、40年ぶりにスイスへ – 中島順三氏にお逢いして

日本人にスイスのイメージを訊いて、かなりの人が挙げるのは「アルプスの少女ハイジ」だろう。それも多くの人はアニメを思い浮かべるに違いない。少なくともスイスに来るまでの私にとってはそうだった。子供の頃に夢中になった正にその作品のプロデューサー、中島順三氏が再びスイスを訪れた。その滞在の最終日に我が家にお招きしてお話を伺う夢のような機会に恵まれたので報告しよう。

このコンテンツは 2014/06/16 00:00
中島順三氏 swissinfo.ch

今年2014年は、「アルプスの少女ハイジ」の放送から40周年にあたる。私は放送をリアルタイムで観た世代だ。ほかの多くの子供たちのように、このアニメを通してスイスという国の存在を知り、自然の美しさに心打たれ、ハイジの優しさや純真さそして郷愁に共感し、クララが歩けるようになったことを喜んだ。

大人になってから、ヨーロッパの各地を旅行するようになり、再放送をホテルで観たこともあるし、本屋の子供用コーナーであの作品を基にした絵本を何度も見た。ハイジの舞台であり、ハイジファンの聖地と言ってもいいマイエンフェルト(Maienfeld)のあるグラウビュンデン州(Kanton Graubünden)に住むことになり、親しみはさらに増すことになった。

その「アルプスの少女ハイジ」のプロデューサーを務められた中島順三氏が、かつて作品の企画段階で訪れたスイスの各地を41年ぶりに再訪された。我が家はその旅程の途中にあり、しかも原作ではアルムおんじ(ハイジのおじいさん)の故郷であるドムレシュク谷(Domleschgtal)に住んでいる縁で、我が家にお招きしてお話を伺う幸運に恵まれた。

中島さんは「世界名作劇場」など多くの作品の制作に関わられ、テレビアニメ界の創世期を牽引した一人である。プロデューサーとして手がけられた作品は「ハイジ」以外にも「フランダースの犬」「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」「未来少年コナン」など名作ぞろい。そんな雲の上の方に失礼があったらどうしようかと、数日前から緊張していた。ところが、最寄り駅で出迎えた時にその不安は吹き飛んだ。柔和で笑顔のとてもすてきな方だったのだ。

今回スイスを訪れられたのは、「アルプスの少女ハイジ」放映から40年が経ち、取材の時に訪れた各地をお元気なうちにもう一度見たいと思われてとのこと。「変わっていましたか」と伺うと「変わっていましたね」と頷かれた。

特に40年前マイエンフェルトでは一日いてもほとんど自動車が通らなかったらしいが、現在ではひっきりなしに車が通っている。特に谷の間を通る高速道路A13は車の流れが途切れることがない。ヨハンナ・シュピリ原作のハイジは19世紀の話だが、40年前のマイエンフェルトで何げなく走っていた馬の引く荷馬車を写真に撮り、それを第一話のシーンに使ったのだそうだ。

マイエンフェルトでいま通る馬車は観光客用のみ swissinfo.ch

そして日本人の作ったアニメも、スイスに変化をもたらした。スイス人にとってはヨハンナ・シュピリの「ハイジ」に対する認識は変わっていないかもしれないが、日本人、そしてそれだけでなく、世界の多くの人にとってスイスと「ハイジ」が結びつけられ、この物語が愛されてこの地域を訪れる人びとが増えた。マイエンフェルトには年間を通してたくさんのハイジファンが訪れる。これはアニメ「アルプスの少女ハイジ」によって知名度が上がったからであることは間違いないだろう。

中島さんが今回もヒルツェル(Hirzel)にあるヨハンナ・シュピリ記念館(Johanna-Spyri-Museum)を訪れたとき、ヨーロッパの他、ロシアやイスラエル、遠く日本からも熱烈なファンが訪れて記名帳にコメントを残しているのを見て、嬉しかったとおっしゃっていた。

ヨハンナ・シュピリ記念館にて swissinfo.ch

「どうしてこれだけの多くの国でアニメ『アルプスの少女ハイジ』が受け入れられたのでしょうか。そのことは制作時から予想なさっていましたか?」

私がこう訊くと、中島さんはにこやかに頷かれた。

「もともと海外でも受け入れてもらえる作品を作ろうと思っていたのです」

アニメの制作には多くの時間と大変な労力がかかる。スポンサーがつくといっても、日本のテレビ番組の枠で放映するだけではとてもそれだけの経費を回収することはできなくて赤字になってしまう。それでも、妥協せずに質のいい作品を作りたい。そのために、別に資金を回収する戦略の柱となったのが、キャラクター商品の販売による著作権収入と、海外への番組の売り込みだった。原作はスイスのものとはいえ、日本人が企画し日本人が描くアニメーションだ。それをヨーロッパの視聴者が観ても違和感のないレベルにすることは、とても大きな挑戦だった。中島さんたち「ハイジ」のチームはそれを実現するために、わざわざスイスに取材旅行に訪れたのだ。

「欧米人の描く日本の風俗、時に全く間違っていることがありますよね。下駄を履いたまま正座して食事をしているイラストを見かけたことがありますが、私たちが作る作品ではそんな失笑ものの間違いをできるだけ避けたかったのです」

スイスの空の青、澄んだ空気、山のシルエット、そして干し草乾燥や手作りチーズの手順に至るまでリアリティにこだわってつくった作品。それが「アルプスの少女ハイジ」だった。

ハイジが住んでいたデルフリのモデルの一つイェニンス(Jenins)の葡萄畑 swissinfo.ch

私の夫やその友人たちに、アニメ「アルプスの少女ハイジ」が日本の作品だということを知らなかった人は多い。細部に対するこだわりが自然な描写となっている何よりもの証拠だと思う。

こだわりはそれだけではなかった。当時のテレビアニメは16ミリフィルムで撮影されていたが、「アルプスの少女ハイジ」はすべて映画と同じ35ミリのフィルムで撮影してあったので、近年になってハイビジョン化しても画面が粗くならない。またサウンドも当時のテレビがモノラルにも関わらずステレオで録音してあったため、当時の音源で再放送しても全く問題がないそうだ。こうした仕事の姿勢とクオリティの高さこそが、40年経ってもこのアニメの魅力が色あせずに、世界中で再放送される人気の秘密なのだと思った。

「視聴率に対する過大な期待やプレッシャーはなく、とにかくいい作品を作ってくれとテレビ局やスポンサーも私たちに任せてくれたんですよ」

中島さんはそう語る。子供たちのために素晴らしい作品を作ることに集中できたのは幸せなことだったと。裁量を任され、その人脈から仲間を集めてプロジェクトは進められた。そうやって彼と共に41年前にスイスにロケーションハンティングにきたのは、宮崎駿氏、高畑勲氏、小田部羊一氏。その後中島さんと共に日本のアニメ界を牽引していった夢のようなチームであった。

才能と個性豊かな人びとをまとめて真に名作と言えるアニメをこの世に生み出すまでには大変な苦労があったことと思う。また、テレビで毎週放映される作品を作り続けるのは、大きなプレッシャーと時間に追われた大変ストレスのかかる仕事だと推察する。その苦労をほとんど感じさせずにさらりと語られる中島さんの笑顔に私は強い印象を受けた。日本のアニメ界を文字通り牽引した40年。ようやく悠々自適の引退生活を送られることになり、リラックスしてスイスの旅を心から楽しまれていらしたように思う。

さて、せっかく我が家にいらしていただけるのだから、少しでもおもてなしをしたいと思っていた。夏は戸外でバーベキューをするのが我が家の定番なのだが、あいにく雨が降っていて涼しかったので、季節外れだけれどラクレット料理をお出しした。40年前、「アルプスの少女ハイジ」で暖炉で溶かしたチーズを食べるシーンには、私も同年代の子供たちと同様に憧れた。ラクレットチーズを溶かしてジャガイモにつけて食べるラクレットは、私の「ハイジ」へのトリビュートでもあるし、中島さんの思い出をたどる旅にも合う。喜んでいただけてとても嬉しかった。

ラクレット swissinfo.ch
ラクレット swissinfo.ch

貴重な旅の最終日に、田舎の村までお寄りくださり、中島さんに心から感謝したい。貴重なお話を伺えたことは、私の一生の思い出となるだろう。

ソリーヴァ江口葵

プロフィール: ソリーヴァ江口葵

東京都出身。2001年よりグラウビュンデン州ドムレシュク谷のシルス村に在住。夫と二人暮らしで、職業はプログラマー。趣味は旅行と音楽鑑賞。自然が好きで、静かな田舎の村暮らしを楽しんでいます。

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