サーカス・クニーの創業者たち。後列左からカール・クニー・マイヤー、ルイス・クニー、フリードリヒ・クニー・リップナー、ルドルフ・クニー・グリーサー。中央はオイゲン・クニー・ゼラー。前列はニナ・ツッターと曲芸師の1人
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戦後、スイスのサーカスは人気の仕事だった。1942年
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1945年の公演で、トランペットで象にベルディのオペラ「アイーダ」を演奏させるロルフ・クニー団長。サーカス・クニーが象抜きで公演したのは2016年が初めてだ
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1943年、練習中の若い曲芸師
Keystone / Str
チューリヒ空港で家族に面会する北米の原住民「鉄の馬」。サーカス・クニーが1958年に披露した民族公演に出演した。民族公演は「異国文化」の人々の暮らしをテーマにしたもので、20世紀のスイスで人気が高かった
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1959年、ライオンの芸を披露する猛獣使いのボイチェフ・ツルブカ。サーカス・クニーは2004年、猛獣をプログラムから除外した
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冬季宿舎に帰ったキリン。1960年
Keystone / Hermann Schmidli
見事なアクロバットを披露するチンパンジーはサーカスの人気者
Keystone / Str
アクロバット集団Wazzanによる人間ピラミッド。1962年
Keystone / Hermann Schmidli
1963年、凍ったチューリヒ湖の上を散歩するサーカス・クニーのラクダたち
Keystone / Str
1964年のスイス博覧会では、ピエロのピオ・ノックが一世一代の芸当を見せた
Keystone / Str
1967年、チューリヒ公演のゲスト出演者を募集するサーカス・クニー
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1969年、初めてサーカステントの中でカトリックのミサが行われた
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スイス最大のサーカス団クニーがベルンで初公演を披露したのは100年前の6月14日。それはサーカス王国の始まりを告げる一幕だった。
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19世紀初め。若い医学生フリードリヒ・クニーは、オーストリアのインスブルックで芸術家のヴィルマに出会い、恋に落ちた。芸術家の生活に魅了され、クニーは研究を中断して芸術家一行とともにオーストリア中を巡った。
恋愛は短命に終わったが、フリードリヒは1806年にアクロバット集団を結成。高く評価され名声を得て、スイスにも登場するようになった。そしてクニー一族の一部がスイスに定住しはじめ、スイス国籍も獲得した。
野外アリーナからテントまで
その100年後。創始者のひ孫にあたるフリードリヒ、ルドルフ、カール、オイゲン・クニーの4兄弟が2本柱テントをローンで入手し、一族の長年の夢だった屋内公演をついに実現させた。
1919年6月14日にテントで行われた初公演と情事に「スイス・ナショナルサーカス・クニー」社が誕生した。タイミングよくサーカスは好評を博した。同じ年、4兄弟はチューリヒ湖畔ラッパースヴィルに常設の冬季用宿舎を建てることができた。
長く激しい戦争後、クニー一家はナチ党員の間で嫌われ者となった。1983年にゲスト出演したドイツで、ハーケンクロイツ(鉤十字)の紋章を旗から消したためだ。だがサーカスには再び人気が集まり、戦争に参画しなかったスイスで働こうと、世界中から曲芸師が集まった。
今日のサーカス王国を司るのはクニー一家の7代目だ。サーカス・クニーのツアーには320人が従事し80匹の動物が同行する。
戦時・戦後のクニーを振り返るこれらの写真からは、人々はまばゆいばかりの豪華なサーカスに、異国の世界を垣間見ていたことが分かる。
(写真は全てPhotopress-Archiv/Keystone)
#swisshistorypicsシリーズでは、スイスの芸術・文化・スポーツにまつわる歴史的な出来事を写真で振り返ります。
(独語からの翻訳・ムートゥ朋子)
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