富裕層への課税強化案 署名は集まるのに国民投票で否決されるのはなぜ?
相続税やキャピタルゲイン課税など、富裕層への課税を強化する案はスイスで何度も提起されている。提案時点では強い支持を得られるのに、国民投票では否決されるのはなぜだろうか?
欧州で不平等は嫌われ者だ。欧州連合(EU)27カ国を対象とした世論調査「ユーロバロメーター外部リンク」2024年版によると、「上位0.001%の超富裕層に課税するべきだ」との見解に回答者の65%が賛同した。
だが昨年、まさにそれを実現しようと署名集めが始まったが、4億5千万人のEU市民のうち署名したのはわずか37万人にとどまった。欧州委員会に立法を提案する「市民イニシアチブ外部リンク」に必要な100万筆には遠く及ばなかった。
スイスではもう一歩前進する。直接民主主義が深く根付いたこの国では、2013年に役員報酬に上限を設ける案、2014年に外国人富裕層の優遇税制「一括税」の廃止案、2021年にはキャピタルゲイン課税案が、国民投票にかけるのに必要な10万筆の署名を集めることに成功した。今回の相続税イニシアチブにも、人口900万人のスイスで13万筆の署名が集まった。
だがそこから先には進まない。これら4件の国民投票はいずれも否決に終わった。30日の国民投票で、相続税イニシアチブは反対票78%という惨敗を喫した。2015年の類似の提案も投票で否決されている。
この結果は政治的には驚くことではないとしても、学問的には「謎」をもたらす、とザンクト・ガレン大のパトリック・エメネッガー教授(政治学)は指摘する。調査によると、スイス国民の間では貧富の差が拡大することへの不満が大きい。それなのに、国民投票の壁を乗り越えられないのはなぜなのか?
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総論賛成、各論反対
富裕層への課税強化に賛同する有権者は多いものの、議論が具体化するとその支持は後退する、とエメネッガー氏は指摘する。独誌「フォークス」の分析によると、「課税反対派は議論の間も自らの立場を貫く一方、当初賛成派だった有権者は反対派の主張に直面すると熱意を失う」傾向がある。スイスに関して言えば、当初の熱意が薄れるのは税制問題に限らず、投票をめぐる論戦で典型的にみられるパターンだ。
論点に挙がるのは、まずどのような種類の「富裕税」が検討されているかだ。ターゲットとなるのが富裕層なのか、相続なのか、キャピタルゲインなのか、それとも他の何かか?
詳細も重要だ。2015年の国民投票では、200万フラン(約3億9000万円)を超える相続に20%の相続税を課す案の是非が問われた。今回の相続税イニシアチブは、5000万フランを超える相続に50%を課税する案だった。50%という税率について、カリン・ケラー・ズッター財務相が「ほぼ収用に近い」と批判した。
税収をどう活用するかも論点となる。2015年では年金支給額の引き上げ、今回は気候変動対策に充てることを目指していた。
また、スイスでは連邦制の問題もある。全26州が広範な財政主権を握り、連邦税の導入は常にセンシティブな議題だ。相続税や資産税など、州が既に課税している税目についてはとりわけ強い抵抗が起きやすい。
最後に、「富は富裕層から低所得層にしたたり落ちる」とするトリクルダウン説も根強い。「豊かな社会における不平等は、貧しい社会における平等よりもましだ」――ヌーシャテル大哲学研究所のオリヴィエ・マッサン教授は11月30日の国民投票に先立ち、フランス語圏の大手紙ル・タンへの寄稿外部リンクでこう論じた。
経済への懸念
だがどんな制度設計にしろ、有権者の最大の懸念事項はいつも同じだ。たとえ新税の課税対象になる人がごく少数にとどまるとしても、その少数が富や投資を持って国外に逃げ出すのではないか、という懸念が常に浮上する。エメネッガー氏も、2015年の相続税導入案が失敗した最大の要因はビジネスや雇用に与えるダメージへの懸念だったと指摘外部リンクしている。
その懸念が的を射ているのかどうか、数値では示しにくい。数字として明らかな事実としては、スイスでは上位1%の富裕層が個人資産の42%を保有しており、占有率は数十年前の30%から上がっている。所得税と資産税の納税額に占める割合は40%になる。
だが、新税を設けた場合にどれだけの富裕層が国外に移住するのか、税収にどのような影響を与えるのかについては、正確に試算するのは難しい。今回の相続税イニチアチブに当たっては、連邦政府は年最大36億フランの損失が発生すると見積もり反対の立場をとった。一方、ローザンヌ大のマリウス・ブリュルハルト教授(経済学)は、最終的には7億フランの減収から3億フランの増収まで幅がある、と試算した。
分からないなら現状維持
こうした「試算のぐらつき」は、イニシアチブが可決された場合に国外移住すると表明した資産家の公然の「脅し」により増幅された――ドイツ語圏の大手紙NZZはこう指摘した。イニシアチブを発議した社会民主党青年部(JUSO)のミリヤム・ホステットマン代表は、この戦略を「脅しキャンペーン」だと批判した。だがこのキャンペーンの効果はすさまじかった。チューリヒ大の調査外部リンクによると、巨額の予算を投じたこの反対運動は、広告宣伝や世論醸成に圧倒的な影響力を持ち、メディアでもイニシアチブにネガティブな報道が広がった。
エメネッガー氏は、経済に与える影響が見通せないことは、有権者がリスクをとりにくくする一因となったと指摘する。「現状を維持すれば、少なくとも何が得られるか明らかだ。そしてスイスでは、現状はそう悪くない」
付加価値税との往復
ミュンヘン大学のラウラ・ゼールコプフ教授(公共政策学)の論文外部リンクによると、19世紀後半から20世紀にかけて導入された資産関連税の多くは、不平等を是正するためではなく、戦争など大きな経済ショックがきっかけとなった。相続税の起源もまた実利的なもので、大半の庶民は税金を払えないほど貧しく、国家財政を賄うためには富裕層の遺産に課税するしかなかったのだ。
ゼールコプフ氏は、20世紀後半に進んだ税制の近代化が状況を変えた、と論じる。戦後の平和と繁栄に伴い、所得税や付加価値税を払えるだけの収入・支出ができる労働者が増えた。これと同時に「法人税は引き下げられ、キャピタルゲイン課税は所得税から分離され、資産税と相続税は消滅し始めた」。OECD加盟国のなかでは、1990年には12カ国が資産税を課していたが、今では3カ国に減っている。
ゼールコプフ氏は、21世紀に少なくとも政治的な状況は再び変わる可能性があると指摘する。高齢化や気候変動、軍事費増強により財政問題が増え、スイスを含む多くの国が新たな財源を探している。同氏は税制の「大改革」は予想していないものの、累進課税案が勢いを取り戻す可能性があるとみる。「なぜならそこにお金があるからだ」
各国で多様な議論
とはいえ、「富裕層への課税強化」案が国民の支持を得ながら実現しないという現象は、スイスに限った話ではない。
フランスでは今年、1億ユーロを超える資産に2%の資産税を課す「ズックマン税」案が大きな話題を呼んだ。ある調査では国民の86%が支持していたが、その緩和案ですら国会を通らなかった。
ノルウェーは資産税率の引き上げ、スペインも強化した。イギリスはオフショア資産への課税を検討し、日本は年間の所得金額が大きいほど税の負担率が低くなる「1億円の壁」の見直しを進める。中国も海外で得た投資収益への課税に踏み切った。イタリアやアメリカは逆に、富裕層の優遇・誘致に傾倒する。
多国間主義にも課題
各国がばらばらに課税議論を進めるなか、世界規模で協調的に議論を進める必要があるとの主張もある。スイスの経済学者3人は、資本も資産家もたやすく国を移れることを踏まえると、「規範的な観点からは、世界的な不平等が最大の問題だ」と指摘外部リンクした。
だが第2次ドナルド・トランプ政権の発足以来、多国間主義は揺らいでいる。昨年の主要20カ国(G20)では国際版ズックマン税すら提唱されたが、今年の首脳会議(サミット)をアメリカはボイコットした。
ジュネーブ国際開発高等研究所(IHEID)のアリス・ピルロ教授は「近い将来、世界規模の資産税が導入されるとはほぼ期待できない」と話す。
NZZは昨年、スイス当局も世界的な資産税の導入に消極的だと報じた。OECD加盟国のうち、資産税を課すのはスイス、スペイン、ノルウェーのみだ。チューリヒ大のフロリアン・ショイアー教授はドイツ語圏の日刊紙ターゲス・アンツァイガーで「スイスは資産税が機能し大きな財源を生んでいる唯一の国だ。このことは国際的にも認識されている」と指摘した。
編集:Benjamin von Wyl/sb、英語からのGoogle翻訳:ムートゥ朋子
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