スイス・ヌーシャテル生まれのマルセル・ジュノー博士は、赤十字国際委員会から第2次エチオピア戦争、第二次世界大戦中の欧州に派遣され、戦争捕虜の調査と救済のため活動した (ICRC)
CICR
原爆投下後、焼け野原と化した広島市中区の様子 (Satsuo Nakata, ICRC)
CICR - NAKATA, Satsuo
1945年8月9日、二つ目の原爆が長崎市に投下された (ICRC)
CICR
爆心地から数キロメートル離れた広島市南区大洲の木造家屋 (Satsuo Nakata, ICRC)
CICR - NAKATA, Satsuo
重度のやけどを負った被爆者(Masami Onuka, ICRC)
CICR - ONUKA, Masami
原爆で重度のやけどを負った被爆者の一人。広島市南区で (Masami Onuka, ICRC)
CICR - ONUKA, Masami
戦争捕虜管理局を訪ねるマルセル・ジュノー博士(ICRC)
CICR
広島市にあるジュノー博士の記念碑(Luc Chessex, ICRC)
CICR - CHESSEX, Luc
1945年8月6日、広島市は原爆によって、一瞬で焼け野原と化した。その荒れ果てた地に初の外国人医師として医薬品を届け、被爆者の治療に当たったのがスイス人のマルセル・ジュノー博士(1904~61年)だった。
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ジュノー博士は原爆投下3日後の9日、赤十字国際委員会(ICRC)の代表として東京に降り立った。当初は連合軍捕虜を救済するための調査が目的だったが、広島の惨状を聞くと、すぐに連合国最高司令官総司令部(GHQ)に支援を要請。交渉の末、15トンの医薬品と医療資材の提供を約束させた。
博士は同年9月8日に広島入りして医薬品を届け、市内の救護所を視察し被爆者の治療にも当たった。医薬品の中にはこれまで日本になかったペニシリンなどもあり、治療に大きく貢献した。
博士はスイスに戻った後、医師の仕事を続けながら核兵器の非人道性を国際社会に広く訴えた。1961年、博士はスイス・ジュネーブの病院で勤務中に心臓発作で倒れ、57歳の生涯を閉じた。
広島市中区にはジュノー博士の記念碑が建つ。
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広島・長崎被爆73年
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(スイス公共放送SRF、2018年8月6日配信)
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