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グッゲンハイム美術館を創設した一族、ルーツはスイスの農村

白い大きな建物
モダニズム建築のアイコンの1つ、米ニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館 KEYSTONE/Sergi Reboredo / VWPics

米国のニューヨーク、イタリアのベネチア、そしてスペインのビルバオ――グッゲンハイム美術館には世界中から芸術愛好家が集まる。美術館を創設した米国のユダヤ系実業家、グッゲンハイム家のルーツは、スイス北部の農村に暮らしていた貧しい家族にある。

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米国のグッゲンハイム家は他に類を見ない美術品コレクションを持つことで知られる。だが、元をたどれば、スイス北部アールガウ州の村レングナウに行き着く。

19世紀初頭。ユダヤ系スイス人のシモン・グッゲンハイムは病床の妻を看護するため仕事を辞め、困窮した。妻が亡くなった時、息子のマイヤーは6歳だった。マイヤーと5人の兄弟たちはそれぞれ別の里親に預けられ、シモンには後見人がつけられた。マイヤーは少しでも稼ごうと、放課後に訪問販売をした。

レングナウのユダヤ人史を研究するジャーナリストのロイ・オッペンハイム氏は、「19世紀の中でも厳しい時代だった。飢えの時代だ。アールガウ州は人々が餓死しないよう週に何回もスープを配らなければならなかった」と説明する。

白黒の家族ポートレート
黎明期のグッゲンハイム家。マイヤー・グッゲンハイム(写真左から4番目)と7人の息子たち Public domain/Wikimedia Commons

シモンは再婚しようとしたが、婚約者で寡婦のラヘル・ヴァイルは最初の結婚ですでに5人の子どもをもうけていた。そのため、地元の教会当局はシモンに家族は養えないとみなした。

オッペンハイム氏は「シモンはおそらく貧しすぎるがゆえに再婚を禁じられた。禁止の理由はいろいろあったが、中にはこじつけもあった」と話す。

そこで、ラヘルとシモン、19歳になっていたマイヤーは、婚姻への制約のない米国への移住を決めた。米国なら職を得ることができ、より良い生活が送れるはずだという期待もあった。

貧困者の移住を後押ししたスイス

「外国への移住は冒険だった。当時はほとんどが帆船で、(大西洋の)横断には1カ月以上かかった」(オッペンハイム氏)

渡航費を出したのはスイス政府だ。「スイスの地方自治体が移住を支援した。特に、貧困層は移住支援を申請せざるをえなかった」と同氏は説明する。

地方自治体は、一度限りの支援で貧しい市民を追い出したいと考えていた。その結果、数万人のスイス人が祖国を離れた。

スイスの地図
スイス北部に位置するアールガウ州レングナウ SRF

同氏によると、マイヤーも地元自治体の支援を受けた。「だが、それは到底十分ではなかった」。家族の一部の出発が遅れたのはそのためだ。「出発予定日の朝、2人の娘の健康状態は惨めなものだった。病気だった」。「家族は2人を残して出発した」

アメリカンドリームの始まり

グッゲンハイム一家とヴァイル一家は1849年初め、フランスのルアーブルから船に乗り、米国に向けて旅立った。そうしてシモンはようやくラヘルと結婚することができた。

実はマイヤーも結婚を考えていた。渡航中、ラヘルの娘バルバラと恋に落ちたからだ。その後、マイヤーはバルバラと結婚し、グッゲンハイム家のアメリカンドリームの基礎を築く。

だが、家計は依然として苦しかったため、マイヤーは子どもの頃からやってきた訪問販売を始めた。オッペンハイム氏によると、グッゲンハイム家は米国で行商人としてスタートを切った。

ほどなくしてマイヤーとバルバラは小さい店を構え、売れるものはなんでも売った。最初のヒット商品は、安価なコーヒー風味飲料。その次は主婦の手を汚さないとうたったストーブ磨きだった。家族の人数も増えていった。バルバラは、1861年生まれのソロモンを含め、子どもを10人産んだ。

実はスイスドイツ語

ひげを生やした男性の写真
マイヤー・グッゲンハイムには子どもが10人いた。晩年はフロリダで慈善事業にいそしんだ Public domain/Wikimedia Commons

マイヤーは1870年までに、香辛料の卸売業者になった。1873年には、灰汁(木の灰を水に浸してできるアルカリ性の上澄み液。一般に洗濯やせっけん作りに用いられる)の生産を始める。その後、倒産した鉄道の一路線を安く買い取るが、これが米鉄道網の主要路線となった。グッゲンハイム家は後に、この路線を転売し巨額の利益を得た。

一家は、この利益をスイス東部ザンクト・ガレンの刺繍工場に投資し、故郷から米国に商品を輸入した。マイヤーとバルバラの息子たちはファミリー・ビジネスにどんどん関わっていった。

オッペンハイム氏は、グッゲンハイム家の話す言葉が米国で笑い話になったと言う。彼らの英語はあまり流暢ではなく、訛りがあった。「米国人は(ユダヤ人移民が話す)イディッシュ語だと思っていたが、実はスイスドイツ語だった」

産業からアートへ

19世紀末、マイヤーの息子の1人がメキシコにある鉛・銀鉱の株を購入したところ、5千ドルで購入した株の価値が1500万ドルにまで急騰した。現在の5億ドル(約757億円)に相当する。

オッペンハイム氏によると、その頃には、グッゲンハイム家はロックフェラー家やバンダービルト家と並ぶ米国の三大富豪の1つに数えられていた。同氏は「いかにたたき上げできたかを見るにつけ、心打たれる」と話す。

グッゲンハイム家の歴史は立身出世物語そのものだ。「グッゲンハイム家は、スイスの小さい農村の貧困から生まれた」

巨額の資金を持ったグッゲンハイム家はその後、文化に関心を持つようになる。一族で最初に芸術に関わったソロモンは、抽象絵画の旗手ワシリー・カンディンスキーの作品を収集した。姪のペギーのおかげで、他の大物芸術家の作品もコレクションに加わった。その中には、パブロ・ピカソ、ポール・セザンヌ、サルバドール・ダリ、ピエト・モンドリアン、ピエール・オーギュスト・ルノワール、フィンセント・ファン・ゴッホ、ジャクソン・ポロックの作品が含まれる。

短期間で一大コレクションを築き上げたことを考えれば、「偉大な業績」だとオッペンハイム氏は話す。

ズルプ谷のユダヤ人コミュニティー

黒いコートと帽子姿の男性
ソロモン・R・グッゲンハイム(1861~1949)は米フィラデルフィア生まれ。後にグッゲンハイム美術館を運営する財団を創設した Apic

グッゲンハイム家は一代で米国のトップに登り詰めた。だが、一族が祖先の地を忘れたことはなかった。1903年、レングナウに主にユダヤ人を対象とした老人ホームを開設した。今ではさまざまな信仰を持つ人々が入居している。

老人ホームはずっとユダヤ人によって運営されてきた。オッペンハイム氏によると、ユダヤ教の戒律に従った食品が食べられるのはレングナウでここだけだ。それは同氏が見学者のグループに村を案内する時、この老人ホームを必ず訪れる理由の1つにもなっている。1866年までスイスでユダヤ人に居住が許されていたのはレングナウとエンディンゲンだけだった。現在では、どちらの村でもユダヤ系住人は減っている。

しかし、ユダヤ人がイスラエルという国家を持つ今日、あまり重要な問題ではないと同氏は話す。だが、ユダヤ人の減少により、2つの村の間にかつてあった共存関係の記憶は薄れている。

アールガウで流した涙

グッゲンハイム家も今日、レングナウと緩やかな関係を保っているにすぎない。オッペンハイム氏は「誰もがこの小さい農村の出身だということを誇りに思うわけではなく」、グッゲンハイム美術館の背景にいる家族は今では米上流階級に属していると話す。

アールガウ州のズルプ谷を訪れるグッゲンハイム家の子孫は、オッペンハイム氏に連絡を取ることが多い。その中にマイヤーの子孫で、米運用会社グッゲンハイム・パートナーズの責任者がいた。オッペンハイム氏は彼をレングナウとエンディンゲンとの間に位置する古いユダヤ人墓地に案内した。

同氏は当時をこう振り返る。「彼を2つの墓石の前に連れて行った。レングナウに埋葬されている、彼の高祖父母の祖父母(6世の祖)のものだ。墓石の前に立つ彼の目には涙が浮かんでいた」。マイヤーの子孫は非常に感動していたという。「彼はもう1つの世界に来たのだ。彼のような人物を生み出したアールガウ州の農村に」

英語からの翻訳:江藤真理、校正:大野瑠衣子

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