
移動型民族の悲劇 スイス・スコットランド・ノルウェーの人権侵害

移動型民族の生活様式を根絶する――20世紀という現代において、スイス、スコットランド、ノルウェーでは、これが国の政策とされていた。行政、慈善団体、支援団体が保護という名のもとに、何十年にもわたって人権侵害を行っていた。

おすすめの記事
「スイスのメディアが報じた日本のニュース」ニュースレター登録
1926年から73年にかけて、スイスでは支援団体と行政当局が移動型民族イェニシェの家族から子どもを強制的に引き離していた。今年2月末、連邦内閣はこれを人道に対する犯罪と正式に認定した。
とはいえ、20世紀に入ってもなお、移動型民族の根絶を政策としていたのはスイスだけではなかった。
欧州全土で移動型民族への差別と偏見が根強く存在し、各地で構造的な迫害が行われていたのだ。なかでも、スコットランドとノルウェーの実態は、スイスと似通っている。
この3カ国では、移動型の暮らしを断ち切ることを目的に、支援団体が何十年にもわたって子どもを家族から引き離してきた。子どもの保護という名目で、国の後ろ盾を得て介入を続けていた。
欧州にはおよそ1200万人のロマ民族(Roma)が暮らしており、この地域最大の少数民族である。文化的背景や生活様式は非常に多様だが、ロマ語(Romanes)を使用するという点で共通している。大多数はもはや移動型の生活様式を取っていないが、今なお「放浪する少数民族」というステレオタイプなイメージを持たれている。その背景には、長年にわたる迫害の歴史がある。
数世紀にわたって欧州の中・西部で暮らしてきたロマ(ジプシー)の人々は自らをシンティ(Sinti)と称しており、この呼称は特にドイツで広く知られている。ノルウェーでは、16世紀から同地で暮らすロマの人々が自らをタータ(Tater)またはルマニ(Romani)と称しており、1856年の奴隷制廃止後に現在のルーマニア方面から移住してきたロマの人々と区別している。
トラベラーとイェニシェ
トラベラー(Traveller)とは主に、英国やアイルランドを中心に伝統的に移動型の生活を送ってきた人々で、スコットランドとアイルランドで暮らすトラベラーは、自らをそれぞれ「ノーケン(Nawken)」、「ミンケーリ(Mincéirí)」と呼んでいる。ロマと民族的な繋がりはなく、それぞれ独自の言語を有するが、昔から「放浪民」と一括りにされ、ロマと同様に反ジプシー主義的なステレオタイプや差別の対象であった。
同様のことはイェニシェにも当てはまる。彼らはスイスだけでなく、隣国フランスとドイツでも暮らしており、独自の言語を守っている。
スコットランド:エリザベスさんの事例
1910年、スコットランドの都市パース郊外。スコティッシュ・トラベラー(スコットランドの移動型民族)のエリザベス・コネリーさんは、娘3人とテントの中にいた。ほかには誰もいなかった。そこへ「クルエルティ・マン(cruelty man)」が現れた。慈善団体「for the Protection of Cruelty to Children(児童虐待防止協会)」の専門調査員である。エリザベスさんら全員は役所へ連れていかれた。
エリザベスさんはそこで書類に署名させられた。文字の読めない彼女には、それが娘たちの引き渡しに同意する書類であることがわからなかった。6歳から10歳までの3人の娘、グレイシー、メアリー、マーガレットは施設に入れられた。その後3姉妹は海を渡ってカナダへ送られ、住み込みで働かされることになった。母親と娘たちが会うことは二度となかった。

ノルウェー:アルネさんの事例
1944年、ノルウェーの小都市トルネス。アルネ・パウルスルーさんは7歳の時に母親から引き離され、施設へ送られた。アルネさんは施設の職員から、自分の母親は「育児能力がなく」、そもそも子どもを持つべきではなかったと聞かされた。母子の面会は禁止された。
成人し、母親が亡くなってから初めて、アルネさんは自分がルマニであることを知った。母親は当局を恐れてその事実を隠していたのだという。
母親自身も子どもの頃に両親から引き離され、ほかの家庭に預けられて育ったのだった。
スイス:ウルズラさんの事例
1952年、スイスのリュッティ村。警察がまだ生後6カ月のウルズラ・コレーガーさんを母親から取り上げ、施設に入れた。「定住」させるため、母親とは離して育てる必要があるとの理由だった。
イェニシェのウルズラさんは、幼少期から10代の終わりまで、施設を転々とした。どんな形であれ、母親との接触は一切禁じられた。
エリザベス・コネリーさん、アルネ・パウルスルーさん、ウルズラ・コレーガーさんの事例は、それぞれ何千キロも離れた場所で起きたことであり、時代も異なる。それにもかかわらず、彼らの体験は似通っている。
16世紀以降、欧州のあちこちで「ジプシー」、「ヴァガボン(浮浪者)」と蔑称された人々に対し、徹底的な抑圧政策が取られてきたことを考えれば、それも偶然ではないだろう。
彼らは定住や市民権の取得を拒否され、やむなく移動すれば国境で追い返された。当局に背けば過酷な罰を受けると脅され、国から国へとたらい回しにされてきた。
19世紀末に入ると警察当局の主導で、移動型民族一人ひとりの詳細な情報を記録するため「ジプシー登録簿」が作成されるようになった。こうした情報は、第二次世界大戦中に独ナチス政権によって、ロマ、シンティ、イェニシェの大量虐殺に利用された。
親子引き離しの源流はマリア・テレジアに
とはいえ、特定の民族を抹消しようという試みは、いきなり殺戮から始まったわけではない。1773年、ハプスブルク帝国の君主マリア・テレジアが、4歳以上のロマの子どもを家族から引き離し、他所で育てるよう命じる政令を発した。この政令がどの程度徹底されたのか、現時点では明らかになっていない。だが、この政令は20世紀にスイスをはじめとした各国で広く取られた政策の原型と言える。
スイスでは1926年、青少年のための慈善基金「プロ・ユヴェントゥーテ」がイェニシェの子どもたちを家族から取り上げ、「定住生活をさせる」ことによって「放浪生活という害悪」を根絶しようとした。73年までにおよそ600人の子どもたちがプロ・ユヴェントゥーテによって家族から引き離された。行政と教会団体もこの活動に関与していた。現時点での推計では、約2000人が被害を受けたとされている。
ノルウェーではこれに先立ち1897年の時点で、国内で暮らすルマニ/タータの人々の「放浪生活」を正すとして「Norsk misjon blant hjemløse(仮訳:ノルウェー放浪民支援伝道会)」が設立されている。

ノルウェー国内のルマニ/タータ系住民グループを統括する最大の団体「Taternes Landsforening(仮訳:タータ全国協会)」の責任者であるリラン・ストゥーエン氏は、swissinfo.chに対し「伝道会によって、全体の3分の1にあたるタータの子どもたちが家族と引き離され、施設に入れられたり、ほかの家族のもとで育てられたりした」と話す。伝道会が1900年から89年にかけて親から取り上げた子どもの数は、およそ1500人から2000人に上るという。
慈善や支援の名で行われた同化政策
さらに「ノルウェー放浪民支援伝道会」は1908年、スヴァンヴィケンに労働教化集落を開設する。「定住生活」に向けた再教育のため、ルマニ/タータ系住民はここへ送り込まれた。厳しい規則と時間割に従うよう強いられ、最低5年はそこで暮らさなくてはならなかった。「言うことを聞かなければ、子どもを取り上げられる可能性もあった」と、ストゥーエン氏は語る。
スコットランドでも、トラベラーを対象に同様の同化政策が取られた。1908年、英国議会は「児童法」を制定。これにより、「スコットランド児童虐待防止協会」のような慈善団体には、トラベラーの親が子どもを年間250日以上通学させていない場合、親子を引き離す権限が与えられた。同協会はその後数年にわたり「プロ・ユヴェントゥーテ」や「ノルウェー放浪民支援伝道会」と同様の手法で同化政策を推し進めていった。
エリザベス・コネリーさんの3人の娘のように、多くの子どもたちが親から引き離され、なかには海外へ送られた者もいた。エリザベスさんのひ孫にあたるリン・タミ・コネリー博士は現在、スコットランドのトラベラーを代表する活動家の1人で、この暗い歴史の検証に長年取り組んでいる。同氏はswissinfo.chに対し「イギリスの旧植民地に奉公に出したほうが、スコットランドで学校に通わせるより安上がりだった」と説明する。
差別を正当化した「科学」
こうした政策の背景には、人種差別的・優生学的な概念と密接に結びついた思想があった。たとえば、1905年からこの分野の調査・研究を行っていたグラウビュンデン州出身の精神科医ヨハン・ヨーゼフ・イェルガーは、「放浪気質」は生まれつきのもので、社会にとって有害な遺伝病と同様の「遺伝的欠陥」だと考えていた。イェルガーは自身の理論を裏付けるためにイェニシェの各家族の名簿と家系図を作成したが、そのためのデータを彼に提供したのがプロ・ユヴェントゥーテだった。
ノルウェーでは――なかでもスヴァンヴィケン労働教化集落では――ルマニ/タータの女性に対して不妊手術を強要し、実際に強制的に手術が施されることもあった。「放浪的な生活様式」は遺伝するものと信じられていたからだ。
一方スコットランドでは、1938年にナチスの優生学者ヴォルフガング・アベルがいわゆる「人種研究」のために訪問。現地当局はこれを受け入れ、トラベラーを対象に身体測定などの調査を実施するための環境を整えている。
ナチスは第二次世界大戦中に50万人とも言われるロマやシンティの人々を虐殺した。だが、そうした悲劇を経てもなお、移動型民族の生き方や文化に対する差別や偏見は根強く残った。
現代まで続いた迫害、問い直される過去
1945年以降も、ポーランドやチェコスロバキア(当時)など共産主義体制下にあった東欧諸国の多くでは、ロマの人々が子どもを取り上げる、逮捕するなどと脅され、新たに建設されたゲットーへの移住を強いられた。
チェコスロバキアでは66年以降、ロマの女性たちが事前の同意なく、あるいは強制的に不妊手術を受けさせられていた。こうした措置は2000年代に入るまで続いていたと言われている。また、多くの国では移動式住居(キャンピングカーやトレーラー)での生活が規制され、長期滞在や一時滞在用の敷地が閉鎖された。同化政策は戦後もなお続いていたのである。
スイスでは子どもを親から引き離す措置が1973年まで続いた。スコットランドでは40年から80年までトラベラーを荒廃した定住区へ強制的に住まわせていた。ノルウェーでは88年までスヴァンヴィケン労働教化集落が存続していた。
こうした国々では1970年代になって初めて公の場で抗議の声が上がった。ジャーナリストによる調査報道やドキュメンタリー映画外部リンクの影響もあったが、ロマ、シンティ、イェニシェ、ルマニ/タータ、トラベラーたちが連帯して自らの権利を訴え始めたことが何よりも大きかった。
関係当局はさらに数十年の月日を経て、ようやく過去の過ちを認めている。
≫この記事は分かりやすかったですか?アンケートにご協力をお願いします!外部リンク
編集:Benjamin von Wyl、独語からの翻訳:吉田奈保子、校正:大野瑠衣子

JTI基準に準拠
swissinfo.chの記者との意見交換は、こちらからアクセスしてください。
他のトピックを議論したい、あるいは記事の誤記に関しては、japanese@swissinfo.ch までご連絡ください。