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絶滅したバイソンを育むスイスの森

バイソン
ヴェルシェンロールの森には7頭のバイソンの群れがいる Keystone / Anthony Anex

一時絶滅に追い込まれた森の主、ヨーロッパバイソン。この夏、スイスで千年ぶりにバイソンの子牛が誕生したことが話題になった。国土の狭いスイスに適した動物では必ずしもないが、森林の多様性を育むための野生化プロジェクトが全国的に注目されている。

野生生物学者のオットー・ホルツガング氏は腕を前に伸ばし、斜面の上の方で草を食んでいるバイソンに向け親指を立てた。「親指がバイソンをすっぽり覆っていれば、私達との距離は十分です」

バイソンに向けて立てた親指
swissinfo.ch

2頭のバイソンが付けたGPS搭載の首輪からは、1時間ごとに位置情報が送られてくる。群れは小さいため、残りの個体もすぐに見つかる。データを見ると、群れはよく森の中で過ごしているようだ。

このバイソンは、もとはチューリヒ近郊にあるランゲンベルク野生動物公園で飼育されていた。しかしこの動物公園には森がなかったため、昨年9月にヴェルシェンロールに移された。移転後、バイソンは新たな住処を3カ月以上かけてくまなく探索したとホルツガング氏は話す。今ではここで快適に過ごしているようだ。ひょっとしたら、いつかほぼ自由に暮らせる日が来るかもしれない。

バイソンの居場所を示す地図
GPSを付けたバイソン(と群れ)がいた場所。森の中で過ごすことが多いようだ zVg

バイソンが絶滅した地域で人工的に群れを作る「再導入」の動きは、世界的に広がりつつある。特に、バイソンが森に戻ると生物多様性が促進されるとも言われている。欧州で主導的な役割を担っているのがポーランドだ。東欧諸国がそれに続く。

散歩中のカップルが放飼場の門を開けたため、我々は一時インタビューを中断した。小道は放飼場を突っ切るように走っている。肩の高さが1.9メートルに及ぶこともある巨大な野生動物が、この2人に危害を加える心配はないのだろうか?バイソンを「優しい巨人」と呼ぶホルツガング氏は、それを否定してこう言う。

「バイソンは既に2人の存在に気づいています。非常に用心深い動物なので、わずかな変化にもすぐ気づきます」。ただこの2人は自分たちにとって危険性がないため、黙々と草を食んでいるという。通行人が何事もなく通り過ぎる様子を眺めながら、「これは本当に微笑ましい光景です」と同氏は話す。

私達が5月にここを訪れた際、群れはまだ5頭だった。7月上旬に子牛が生まれたときは、「スイスで千年ぶりにバイソンの子牛が誕生」とメディアでも取り上げられた。現在、群れはリーダー格の雌牛1頭、他の雌牛2頭、子牛3頭、雄牛1頭で構成される。

12頭のバイソンから生まれた子孫

環境科学者のオットー・ホルツガング氏
プロジェクトの責任者オットー・ホルツガング氏。環境科学者として25年以上の経験を持つ swissinfo.ch

ヨーロッパバイソンは絶滅したも同然だった。20世紀初頭には野生のバイソンがまだ800頭ほど残っており、主に東欧の広大な土地で生息していたとホルツガング氏は言う。だが1919年に野生では最後のヨーロッパバイソンがポーランドで射殺された外部リンク

オランダのマーストリヒト大学で環境史を専門とするモニカ・ヴァシーレ氏によると、欧州では1924年にバイソンの保護計画が立ち上がった。

当時、バイソンは飼育されていた54頭を残すのみとなっていた。そのうち生殖が可能だったのはわずか12頭。つまり現存のバイソンは全て、この12頭から生まれた子孫だ。最初の再導入は1952年に行われた。

ルーマニアのカルパティア山脈で実施されたヨーロッパバイソンの再導入を調査外部リンクした同氏は、「このようなプロジェクトは非常に複雑です。動物の福祉を守り、ストレスを軽減し、自立できるようサポートするには、さまざまなレベルでの専門知識が必要です」とEメールで回答した。

また、地元住民の協力も不可欠だという。「動物の大小にかかわらず、地元住民との入念なコミュニケーションは欠かせません」。スイスのプロジェクトが成功と言えるかどうかは、入念な調査を通してしか判断できないとヴァシーレ氏は述べた。

植生への影響

バイソンが私達から少し離れたため、森へ通じる道を使えるようになった。このプロジェクトがどのように科学的にモニタリングされているのか見学できる場所へ移動することにした。

バイソンが環境に与える影響を理解するため、複数の大学や研究所の研究者らは繰り返し森を訪れ、サンプルの採取や測定を行っている。

今日は植物学部の研究者2人が若い木々への食害を調査するために森に来ていた。どの動物が植物を食べたかは判別できないため、その前後の状況を比較することが重要だという。

植物学者のニコル・イメッシュ氏
植物学者のニコル・イメッシュ氏。サンプルを収集するために年に数回、ヴェルシェンロール南西に位置するこの森を訪れる swissinfo.ch

測定は常に放飼場の同じ地点で行われる。無作為のグリッドで120カ所抽出し、50メートルごとに設定された測定ポイントで観測を行う。生物学者のニコル・イメッシュ氏は樹木の高さで分類したカテゴリーから2本ずつ若木を選んでデータを採取し、以前の測定データと比較する。

バイソンが放たれる前にも、ここへは2回測定に来ていたという。「シカとシャモアの森に与える影響が大きくなっています。バイソンがいない時からそうでした」(イメッシュ氏)

プロジェクトの反対派も

野生生物学者のダニエル・ヘグリン氏は、この再導入プロジェクトを「実にうまく進められている試みだ」と評価する。ヒゲワシ保護財団外部リンクの理事を務めるヘグリン氏は同プロジェクトには関与していないが、動物の野生復帰の専門家として知られる。

再導入は3つの条件を満たす必要があるという。1つ目は、事前に包括的な評価を行うこと。2つ目は科学的なモニタリング。そして3つ目は、住民に受け入れられることだ。

ヴェルシェンロールのプロジェクトでネックになっているのは、この3つ目だ。市民の代表者との話し合いでは、特に農家との間で繰り返し意見の対立が生じていると報じられている。ドイツで行われた同様のプロジェクトが失敗した外部リンクことも関係しているかもしれない。

これについてホルツガング氏は、「絶対に賛成という人もいます。悪いアイディアではないが、あえて実現させなくても、と考える人も。もちろん、どのプロジェクトでもそうですが、絶対反対の人もいます」とコメントした。

そのためプロジェクトの責任者らは、子供達がバイソンを見に来るのは大歓迎だという。子供達は当初から、学校の授業でバイソンの見学に来ていたそうだ。それがきっかけで、後日、親と一緒にやって来るケースもあったという。「つまり子供達は、市民の理解を広める役割も担ってくれたというわけです」

バイソンの野生化が生物多様性を促進

チューリヒのランゲンベルク野生動物公園外部リンクのカリン・ヒンデンラング園長は、バイソン再導入プロジェクトの発起人の1人だ。チューリヒ市南部のジールヴァルトにある野生動物公園には、既に1969年からバイソンがいる。同氏はEメールで、このプロジェクトが実現したことを非常に嬉しく思い、バイソンの生態や景観に与える影響について新たな洞察が得られることを期待していると回答した。

「バイソンの採食行動は森の植生に大きな影響を与えます。痩せた森と牧草地だけだった山を、種の多様性にあふれる豊かな景観に変えていくでしょう」(ヒンデンラング氏)

同園は、ヨーロッパ絶滅危惧種プログラム(EEP)にも参加している。絶滅が危ぶまれる種を動物園で選択的に繁殖させ、可能な限り幅広い遺伝的基盤を維持していく取り組みだ。そのため、ヴェルシェンロールのバイソンには血統登録書も付される。

自由の日は近い?

バイソンの放飼場は来年の秋には100ヘクタールに拡大される予定だ。実験的な目的から、現在は異なる2種類の柵で囲まれている。1つは、3本の電線を0.5メートル、1メートル、1.5メートルの高さで張った電気柵。もう1つは、高さ2.5メートルのワイヤーフェンスを特定の場所に設置している。

これなら他の野生動物も出入りできる。すると突然、それを実演するかのように、囲いの内側にある森の中からシカが現れた。「シカは初日から囲いの中に現れました。バイソンの近くにいる姿が観察されています」とホルツガング氏は言う。

この広大な放飼場でのプロジェクトは、スタートから3年の時点で担当者らが結果を報告する予定だ。バイソンがどんな影響をもたらしたか?市民から受け入れられているか?林業や農業から見て、経済的に問題はないのか?州はこれらを全て吟味した上で、プロジェクトを続行するかどうかを決定する。

プロジェクトの次のステップは、群れの半自由化だ。柵を撤去し、バイソンが多かれ少なかれ自由に移動できるようにする。「それでもGPS発信機は外しません。バイソンは依然として(プロジェクトを実施している)協会の所有物です」とホルツガング氏。つまり、損害賠償の支払いは全て協会が負担し、バイソンが病気になったり攻撃的な行動でトラブルが起きたりすれば協会が責任を負う。

動物を完全に野生化できるかどうかは、現時点では全く不透明だ。最終的には、群れが生息する州(恐らくソロトゥルン州)が連邦環境省環境局(BAFU)から許可を得る必要がある。

ふと気づくと、群れはかなり私達のそばまで来ていた。「ちょっと近すぎますね。というより、バイソンが私達に近寄りすぎました」とホルツガング氏は言う。「あの雌牛がどうするか、少し様子を見ましょう。向こうに行ってしまえばそれでOKです。もしこちらに向かってくるようなら、私達は下がります」。バイソンの雌牛はやがて何事もなかったかのようにゆっくりと私達から離れて行った。「優しい巨人」は本当だった。

編集:Sabrina Weiss、独語からの翻訳:シュミット一恵

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