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スイス人作家ペーター・ビクセル 80歳を迎え自身を語る

2015年1月にオプヴァルデン州ザルネンで行われた朗読会でのペーター・ビクセルさん Keystone

スイス人作家ペーター・ビクセルさんは、先月24日に80歳を迎えた。40年以上に及ぶ執筆活動で出版された本は30冊。コラムへの寄稿は1千本にのぼり、行った朗読会は数えきれない。5月16日にはソロトゥルン州で開催される「Literaturtage外部リンク(文学の日)」でも朗読をする。「作家」としての自分をどう捉えているのか。傘寿(さんじゅ)を迎えたスイスの著名作家が自身を語った。

 ビクセルさんの人生の中で、読書はなくてはならない存在だ。「書くこと」よりも「読むこと」が大切だという。しかし最近は以前のように書いたり読んだりすることも少なくなった。疲れやすくなったからだ。「最近寄稿したコラムは、それこそ苦悶の中から書き上げた。読者がそのことに気付かないといいが。コラムを書くと毎回、ロック・クライミングをしたかのようにひどく疲れた。だからこれでおしまいだ」

 現在はスイス北西部のソロトゥルン州で暮らしている。鉄道職員の息子に生まれ、同州オルテンで育った。個人主義者で、既成の概念にとらわれない思考をする。教師であり、哲学者で物書き、そして詩人でもある。また「老い」のつらさを抱える気などなく、また「頭に湧く」懐旧の情を回避しようと努力している。

 つい年を数え始めてしまうことが嫌だという。「年老いた教師が当時何歳だったのか計算してみると、子どもの目には老人のように映っていた教師が、実のところ45歳だったとわかる。また、私の親友が50歳で亡くなった時は、結構年齢がいっていると思ったが、今となって彼は若くして亡くなったと思っている。そして先の将来を考えると、残された時間は短いことに気付く」

「私の年齢は、あるがままの私の姿だ」

 傘寿を迎えたことで、また「作家ペーター・ビクセル」について書かれてしまうと本人は愚痴をこぼす。それとも冗談で言っているのだろうか。「まるで私が朝から夜遅くまで作家でしかいないようだ。そんなことはない。そんな風であったことは一度もない」

 作家というよりは喫煙家で赤ワイン愛飲家なのだと、ソロトゥルン旧市街の中心にある書斎でビクセルさんは語る。ほの暗い書斎は居心地がよく、あらゆる場所に本があり、机の上や床にも積み上げられている。写真や絵が壁に飾られ、亡き友人で作家のマックス・フリッシュが愛用していたパイプや、さまざまな色や大きさ、素材で作られたサイの収集品が置かれている。ビクセルさんは毎日この書斎に通うが、1~2時間しかいないこともある。

 ちょうど80歳となるこの年に、新しくコラム集「Über das Wetter reden外部リンク(天気について話そう)」が出版された。文芸評論家のベアート・マッツェナウアーさんは、「この本には、今日では他に類を見ない、優れた人間喜劇が集約されている。この大作では平凡で、日常的で、地味なものがきらきらと輝き出し、それらの作品群が一つの世界として広がっている」と高く評価する。

 この著書の中でも、ビクセルさんは年齢や老いについて語っている。例えばドイツ語圏には「年齢とは、自分が感じている年齢である」という格言があるが、ビクセルさんは懐疑的だ。「私が30歳だった当時、その格言を言う人は誰もいなかったし、私が美しい青年だと誰一人言ってくれなかった。年を取ると、そのような馬鹿らしい格言がどんどん耳に入ってくる。私の年齢は『私が感じている年齢』ではない。私の年齢は『あるがままの私の姿』だ。少なくともこの点についてはそっとしておいてほしい」

懐疑的で個人主義的

 ビクセルさんは見たものや考えたもの、また自分自身について深く考えをめぐらせる。好きな作家がトルストイだと決めつけられるのは嫌だが、トルストイのことは賞賛する。「『戦争と平和』を読むと、世界の全てを忘れ、足が宙に浮き、あらゆる現実とのつながりを失う。トルストイに会ったこともないし、彼は随分昔に死んでしまっているが、彼には深い友情を感じている」

 情熱に溢れた人間でも、物書きでもないと自身を評価する。「子どもの頃から書くことが好きだった。8歳から20歳までの間に書いた量はおそらく、その後の人生で書いた量よりも多いだろう」

 一方で、実は書くことよりもツール・ド・フランスに出場し、勝利を収めてみたかったと言う。「ところが体育ではいつもビリの成績だった。サッカーでは左サイドバックの補欠2番手だったから、一度も試合に出たことがなかった。家に戻ってから、サッカーが上手い奴らに秘かに復讐するために、詩を書いたりしたものだ」

 一人で行動することを好むのは小さい頃からだ。駅や電車、また居酒屋などで大勢の中に一人でいることを好む。「別に世捨て人というわけではない。アルプス山脈を一人で登ったりはしない」

「言葉に語らせる」

 実のところ、執筆活動によって人生がめちゃくちゃになってしまうのではないかと、常に不安を抱いていたという。だが「素人」の視点を忘れずに書き続けたことで、幸運にもこれまでやってこられたと話す。「素人のままでいられるというよりはむしろ、素人のままでいなければならない。こんな職業を他には知らない」

 ビクセルさんが執筆で大切にしているのは言葉だ。「その内容ではなく、『語り』が文学の要だ」。自分の意見を持ち、例えば「思いやりに欠ける乱暴な政治」を憂慮したり、また人生について考えたりすることは当たり前だと言う。常に意識しているのは、「言葉」に語らせることだ。簡明に、短い散文詩風に描かれた物語には独特の抑揚があり、そしてしばしば予想外の展開を見せる。

 作家でドイツ文学研究者でもあるペーター・フォン・マットさんはビクセルさんについて、長く熟考したことについてしか発言しないと、日曜紙シュヴァイツ・アム・ゾンタークで評している。「そして彼が書いた文章もまた、長い道のりをたどってきている。だからこそ彼の文章は確信に満ち、かつ普遍的なのだ」(フォン・マットさん)

 ビクセルさんにとって不可欠なのは、スイスのドイツ語方言と標準ドイツ語の間にある緊張感だという。「もしベルリンやハンブルクで書きものをしろと言われたら、ものすごく苦労したと思う。例えばフランス人作家の場合は話し言葉も、書き言葉も全く同じだが、私にはそれが想像できない」。標準ドイツ語を完全な外国語だと捉えたことは一度もないが、「少しだけ違和感がある。日常生活の細かい表現を標準ドイツ語でするとなると、やはり外国語のように感じる。標準ドイツ語で恋に落ちることはできないね」。

「もうこれ以上はいい」

 ビクセルさんにとって大切なのは、先入観にとらわれないこと、そして物事に対してオープンであることだ。物事を監視するのではなく、見る人でいたいと話す。「監視をしてしまうと、何も書けなくなってしまう。例えば監視をする警察官は、自分が何を見つけたいかがはっきりしている。戦地で監視する兵士は何を監視すべきなのかわかっている。敵が攻めてくるかどうかだ。それに対し、見るという行為は偏見にとらわれていない」

 最後のコラムを書き上げたビクセルさんはこう話す。「もう書かなければいけないという気持ちはなくなった。もうこれ以上はいい。今はここに座り、何か湧き上がるものがあるかどうか、それを待っている。もしかしたらもっと長い物語かもしれない。もし何も湧き上がってこないのであれば、それはそれでいい」


ペーター・ビクセル

1935年3月24日、ルツェルンに鉄道職員の息子として生まれ、オルテンで育つ。その後、ソロトゥルンの師範学校に進学。

妻は、2005年に死去したスイス人女優のテレーゼ・シュぺリ。50年間の結婚生活を共にし、シュペリとの間に息子と娘をもうけた。

1974年から81年まで、当時連邦閣僚だったヴィリ・リッチャート(社会民主党)のアドバイザー及び、スピーチライターを務める。

これまでに30作品あまりを執筆。特に短編やコラムを多く執筆した。64年に発表された処女作「ほんとうはブルーム夫人は牛乳屋さんと知り合いになりたいのだ(Eigentlich möchte Frau Blum den Milchmann kennenlernen)」は大成功を収め、続けて70年に出版された「Kindergeschichten(子ども物語)」も人気を博す。また40年以上に渡り、週刊新聞のヴェルトヴォッヘやターゲス・アンツァイガー・マガジン、労働組合機関紙などに1千を超えるコラムを寄稿した。

また、47年グループ文学賞(65年)、ドイツ児童文学賞(70年)、ベルン州文学賞(78年)、ゴットフリート・ケラー文学賞(99年)、ソロトゥルン文学賞(11年)、そしてスイスで最高の文学賞であるシラー賞(12年)など、数々の文学賞を受賞。作品は日本語を含む、さまざまな言語に翻訳された。また客員講師として国内外の大学で講義を行うなど、活躍の場を広げた。

今年、2012~15年までのコラムをまとめた新作「Über das Wetter reden(天気について話そう)」が出版された。


(独語からの翻訳・編集 大野瑠衣子)

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