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スイス人哲学者の絶望 中国人愛弟子による裏切り

哲学者のイゾ・ケルン氏
ベルン州クラッティゲンの自宅で哲学の世界に浸るイゾ・ケルン氏 swissinfo.ch

哲学の語源は「知を愛すること」。スイス人のイゾ・ケルン教授は中国哲学に人生を捧げてきた。その愛弟子である中国人が恩師の著作物を中国で無断翻訳・出版するという愚行に及んだ。

都市の喧騒から遠く離れた、古い農家を改築した小さな木造家屋。天井まで届く書棚にはびっしりと本が並んでいる。ベルナーオーバーラント地方のトゥーン湖畔、クラッティゲン村にあるここがケルン氏の住まいだ。85歳になった今も、毎日6~7時間は執筆に没頭している。

哲学者イゾ・ケルン氏の書斎
大量の書物が並ぶケルン氏の書斎 swissinfo.ch

古いラジオと固定電話、そしてEメールアドレス。ケルン氏と外の世界をつないでいるのはそれだけだ。中国籍の夫人の言葉を借りれば、ケルン氏は哲学の世界にどっぷり浸っている。隠居してもう20年、この地で静かにのどかな余生を過ごすはずが、人生をゆるがす嵐のような事件がおこった。

イゾ・ケルン氏は中国では耿寧(ゴン・ニン)という名で知られる有名な哲学の大家だ。明代の儒学者、王陽明(1472~1529)の研究に生涯を捧げている。長年の研究でケルン氏は東西の哲学に橋を架けた。その橋は大きくゆるぎない、輝くようなライフワークだ。

フッサールの速記を解読

2022年7月、香港からクラッティゲンにカメラクルーがやってきた。イゾ・ケルン氏を主役に、「The Hanologist(中国学者)」というタイトルのドキュメンタリーシリーズを撮影するためだ。「これほど著名な学者が近所に住んでいることを、村の人たちはこのとき初めて知ったのです」。そう話すのは映画監督兼ディレクター兼プロデューサーのリュー・イー(劉怡)氏だ。イゾ・ケルン氏の全人生を描きたいとカメラクルーを連れてクラッティゲンを訪れ、さらにベルギーのルーヴァン大学にも足を伸ばした。彼の地では博士号を取ったばかりの若きケルン氏が働いていたのだ。

だがこの時ケルン氏が成し遂げた大業は、辛苦と勤勉、師弟愛、裏切り、そして橋を架けられないほど大きくなった亀裂の痛ましい物語に発展した。その中心にあるのが、ドイツ語版フッサール全集のうちの3巻だった。

エトムント・フッサールはドイツの哲学者で、現象学の創始者として知られる。難解さで有名なその思想をいささか乱暴だが一言でいうと、フッサールはあらゆる学問の上位に哲学があり、すべては哲学に由来すると考えた。また、すべての学問においてあらゆる知識の獲得は生じた現象から始まると定義した。

フッサールの哲学を読み解くために若き日のケルン氏が費やした労力は膨大だった。フッサールが遺した4万ページに及ぶ速記草稿から必要な部分を選んで解読し、編集して『間主観性の現象学(Zur Phänomenologie der Intersubjektivität)』を世に送り出した。

フッサールの速記文字
苦労を積み重ね、ケルン氏はドイツの哲学者フッサールの速記文字を解読した Liu Yi, insight studios, Hongkong

それは苦労の連続だった。「フッサールの哲学は奥が深く、理解するのに2年かかりました」とケルン氏は述懐する。けれどもその前にまず該当するテキストを選び出して編集する必要があった。その後で難読の速記文字を現代ドイツ語に書き換えた。その上、フッサールの速記文字を読めるようになるまでに2年を要している。

「1973年に出版するまでに10年かかりました」ケルン氏はそう振り返る。ちなみにドイツ語版フッサール全集は全部で42巻あり、スイスも含むドイツ語圏の哲学者たちが責任編集。ケルン氏はそのうち第13~15巻の3巻を担当した。

師弟愛と裏切り

クラッティゲンでの撮影中、リュー・イー氏がこの全集に中国語版があるかと尋ねると、ケルン氏は否定した。ところが後日、リュー氏はインターネットで中国版を見つけ出す。それは2018年に出版されており、編集責任者の名前はニー・リアンカン(倪梁康)となっていた。同氏は中国の哲学教授で、イゾ・ケルン氏の教え子でもあった。リュー氏は中国でケルン氏のまとめた3巻を含む17巻が無断で翻訳・出版され、流通していることを伝えた。

「それを知ったとき、ケルン氏は麻痺したように動けなくなりました」(リュー氏)

ケルン氏はニー・リアンカン氏に連絡を取った。教え子はつい最近スイスの恩師をクラッティゲンに訪ねていた。正確にはケルン氏の著作を中国で出版した翌年、2019年のことだった。

ケルン氏は電話で同氏に問いただした。どうしてあのとき出版のことを話してくれなかったのか?ニー氏は誤解があったと答えた。「それ以降、ニーとはまったく連絡が取れなくなりました」

リュー氏はswissinfo.chに、「ニー・リアンカン氏はケルン氏の著作の監訳者です。ケルン氏との親密な関係を考えると、何を置いても恩師のケルン氏に報告するのが筋でしょう。どう考えてもおかしい」と話した。

罪と償い

ケルン氏は弁護士を頼んだ。その弁護士が調べたところ、このような行為は欧州の法律だけでなく、中国の法律にも違反していた。北京の著作権専門家ホー・レイ氏からswissinfo.chが受けた説明によると、外国語の著作を翻訳するには著作権者の許可が必要だという。「ある書籍が著作権を侵害した場合、著者、出版社、印刷会社が連帯債務者として損害賠償責任を負います」

ケルン氏の弁護士は不法に出版された書籍を破棄するよう要求し、盗用者であるニー・リアンカン氏には公的な謝罪を求めた。だがそれは容易ではなかった。同氏にとってこのような謝罪は、面目を失うことを意味するからだ。同氏が盗用した書籍は、中国の国家社会科学基金による大プロジェクトの一環として出版されていた。この基金には中央政府が直接出資しており、要求される学術水準は非常にハイレベルだ。

無断翻訳の告発について国家社会科学基金はどのような見解を持っているのだろう?swissinfo.chは基金に問い合わせたが、いまだ回答はない。

2022年10月、中国の出版社から手紙が届いた。「編集部がすでに著作権が切れていると勘違いしたことによる重大なミスだった」というのが出版社の説明だ。「イゾ・ケルン氏に心からお詫び申し上げます」と記されていた。さらに、該当する書籍はすでに回収済みで、ケルン氏の弁護士費用と合わせて賠償金も出版社が支払うという。また今後新版を出す際には必ずイゾ・ケルン氏を編集責任者として明記するとの申し入れもあった。

swissinfoはニー・リアンカン氏に電話をかけた。「これは双方の出版社の問題で、私は無関係だ」。同氏は続けた。「私がイゾ・ケルン氏に謝罪する必要はないと思う。イゾ・ケルン氏の方が私に謝罪すべきだ」。同氏は40年の長きにわたりケルン氏と師弟関係にあった。学問上だけでなく個人的にも長年親しい関係を続けてきた愛弟子の一人だった。「私に謝罪するようニー・リアンカンに求めたい。それも公の場で謝罪してほしい」というのがケルン氏の願いだ。だが謝罪は行われていない。

哲学とプロパガンダ

イゾ・ケルン氏には中国の習近平国家主席と浅からぬ縁がある。習近平は王陽明の思想を賛美している。そしてその偉大な王陽明を中国人に親しみやすいよう初めて紹介したのがケルン氏だった。

国家主席が王陽明の信奉者であると広く知られたため、中国では今、王陽明ブームが起きている。電子版経済誌「中国経済網」によると「わずか10年前でも、王陽明のことを知る人は少なかった」が、現代の中国文化では非常に人気の高い文化的シンボルだという。こうして明代中期の普遍的思想家、王陽明は再評価され、現代によみがえった。その思想は中国哲学全体に多大な影響を与えている。最もよく知られている命題は、「知行合一(ちこうごういつ、知ることと行うことは分離不可能とする考え)」。だがその考えは、個人の良心こそが社会の繁栄への道筋だと解釈することも可能であり、まさに習近平の権威主義体制と合致する。

あらゆる方面から王陽明に光が当てられ、文化ツアーや講演会など多彩なイベントが開催され、書店では一番目立つ場所に王陽明の関連書籍が置かれている。その思想を中国の人々に知らしめる先駆的な仕事をしたのがイゾ・ケルン氏だった。ケルン氏は著書『人生で最も大切なこと』で、中国の思想家王陽明の目的論(すべての事象は何らかの目的によって規定されるという思想)を西洋哲学の現象学的観点から解釈している。ケルン氏はこの思想を新しい視点で検証し、新たな文脈で分析した。そしてこれこそが、ケルン氏が作り上げた東西の架け橋だった。

愛と悲しみ

イゾ・ケルン氏は習近平に手紙を書いた。「わたしは母国スイスを愛するのと同じように中国も愛しています。中国人の弟子が法に反する行いをしたことを、深く悲しんでいます」。習近平からの返事はまだない。

イゾ・ケルン氏は1961年にベルギーのルーヴァン大学で博士号を取得。1962年から1971年までルーヴァンのフッサール文庫で、フッサールが遺した速記草稿から間主観性の現象学に関するテキストを選出し、編集する。この時期に現代中国語も習得した。

1979年、正教授の職を辞し、中国哲学に専念するため中国に赴く。1984年まで、台湾、ニューヨーク、南京、北京で研究に従事。1985年からベルン大学で道教、儒教、仏教を教え、1995年には同大学の名誉教授となる。

編集:Balz Rigendinger、独語からの翻訳:井口富美子

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