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スイス連邦の象徴 ゴッタルド峠

カスパー・ウーリッヒ・フーバーによる19世紀の「悪魔の橋」の不吉な眺め AKG

新ゴッタルド基底トンネルが貫通する10月15日は、建設にかかわった全ての鉄道関係者にとって栄光の日になる

トンネル貫通の記念祝賀祭は、スイスのアイデンティティーを色濃く表現したものになる。「ヨーロッパの屋根」アルプスはスイス連邦建国の伝説が誕生した場所だ。

オーラの輝き

 「ゴッタルド峠の繁栄には波がありました。13世紀後半に国家間の交通は非常に発展しました。交易路は変化し、海洋通商が発達したのです。奇妙なことにスイス独立の伝説が書かれたのは、その2世紀後です。そのときにはゴッタルド峠がヨーロッパの交差点だったという記憶がすでに失われていました」
 とヌーシャテル大学で中世史を教えるジャン・ダニエル・モレロ教授は説明した。

 さらにモレロ氏は
「ヨーロッパ縦断の交易ルートが再び通商交通の重要な軸になったのは20世紀以降です」
 と付け加えた。

 いずれにせよ新ゴッタルド基底トンネルの開通は、エンジニア、建設作業員、地質学者にとっての祭典となる。そしてゴッタルド峠が国家の象徴であるという特質も色濃く表現される。

ゴッタルド峠とその周囲の地域は、1291 年に原始3邦が結んだ「リュトリの誓い ( 永久同盟 ) 」やオーストリア軍の占領に対する勇敢な抵抗、聖人ゴッタルド ( ゴッタルド峠の守護聖人 ) の伝説が生まれた舞台だ。ゴッタルド峠はアルプスにもう一つある大きな峠、シンプロン峠にはないオーラに包まれている。

スイス建国の伝説の生誕地

 神聖なゴッタルド山塊は、18世紀にゲーテ、シラー、ラマルティーヌなどの芸術家を魅了した。ゴッタルド山塊の地域は異なる言語と文化の交差点であるにもかかわらず、独立の象徴、そして次には団結の象徴と考える集団的思考が次第に形成されていった。

 ゴッタルドはなぜ異言語や異文化が混在する場所になったのだろうか? 
「13世紀には、ゴッタルド峠の商業的な重要性が高まりましたが、それと同時にハプスブルグ家に対するコミューンの反発が起きていました。ゴッタルド峠の交通管理ですでに豊かになっていたウーリ州は、神聖ローマ帝国の皇帝からの特権を享受していたようです。このためウーリ州は永久同盟を結んだ原始3邦のうち、最初に『恩恵を受けた』邦と言われるようになったのです」

 連邦国家建国の過程の伝説化はおそらく、地元の伝説の一部が反映され、口承によって変化し、次第に広まっていったと思われる。
 「永久同盟について13世紀に書かれたものは、まだ発見されていないため情報源が少ないのです」
 とモレロ氏は微笑みながら答えた。

奇妙な混合体

 『ザルネンの白い本 ( Le Livre blanc de Sarnen 1470年 ) 』は、ゴッタルド地方の共同体の独立、『リュトリの誓い ( 1291年 ) 』と『ウィリアム・テル ( 1307年 ) 』の3つを合体した初の物語だ。この本は、それらの出来事が起きた時代から150 年以上も経た後に記されている。

 その後、ウィリアム・テルは建国の父と並んで語られるようになった。そしてスイス国内の対立を仲裁し、1480年の「シュタンス協定」締結に貢献した修道士ニクラウス・フォン・フリューも同様だ。この修道士はスイスの守護聖人になった。
 「伝説では、ニクラウス・フォン・フリューは暴力を削減、回避する一種の道徳の守護者のように描かれています」
 とモレロ氏は説明する。

 今日スイス中央部が、20世紀に発達したスイスの閉鎖的な国家意識に結び付けられることがたびたびある。
 「ウィリアム・テルの伝説は、スイス人に運命を受け入れる気持ちを起こさせますが、自分たちを『例外』と考えるように励ましもします」
 とモレロ氏は語った。

孤立への衝動

 こうした考え方は、孤立への確かな衝動の中で復活した。この夏行われた調査の結果、「総体的にスイス人は過去10年の間に、外界や変化に対して以前より開放的でなくなった」ことが判明した。これには、グローバル化、9.11米同時多発テロ、スイスエアーの失墜、金融危機などの理由が挙げられる。

 モレロ氏もまたこの変化を認める。
「外国に権力を与えてはならない、同盟の内部だけでやっていかなければならないという考えがそれらの伝説の中にあったことに、スイス人が良心のとがめを感じていたとしても、それは確かです。伝説は、スイス人の本当の運命について何かを伝えているのかもしれません。そのため人々が再び伝説に興味を実際に持つようになり、政党がそれを利用するようになったのです」

 ウィリアム・テルに再び脚光が当たるようになった。新しいトンネルは「伝説に対する国民の必要性を目覚めさせた」とマルコ・ソラリ氏は確信する。ソラリ氏は、国家を挙げた展覧会「ゴッタルド2010」の計画と開催をティチーノ州から委任されている。この展覧会は、2017年の新ゴッタルド基底トンネルの開通を記念し、テチィーノ、ウーリ、グラウビュンデン、ヴァレーの4州で開催される。

トンネルの開通に合わせて、2017年12月に開催予定の展覧会。
スイス中央部の山の頂上で、2018年夏に国家的な展覧会を開催する計画が提案されている。
第1回目の計画は、「 Expo.02 」の開催の諸問題により、政界からの強い支持を得られなかった。
ベリンツォーナ、ルツェルン、コワール ( Coire )、ブリーグ ( Brigue ) の4カ所を結んだ菱形の地域内で、文化、モビリティ、エネルギー、自然をテーマにした展展覧会が開催される予定。

1220年:ゴッタルド峠が開通し、峠の北側 (ウーリ、シュヴィーツ) は、利益を生む交易路の管理を行う重要な地域となった。神聖ローマ帝国の皇帝は、この2邦に皇帝の直属支配を認め、近隣の封建諸侯の権力による支配からの自由を保障。しかしこの地域に広大な家領があったハプスブルグ家との摩擦が生じるようになった。

1291年:ウーリ、シュヴィーツ ( スイスの国の名前の元になった ) 、ウンターヴァルデン ( 現在のオプヴァルデンとニドヴァルデン ) の原始3邦が封建諸侯の支配に抵抗し、相互援助を目的とした永久同盟(リュトリの誓い)を結び、スイス盟約者団を作った。これは現在26州からなるスイス連邦の原型となり、19世紀の終わりに1291年がスイス建国の年に制定された。

1315年:ハブスブルク家が、ゴッタルド峠越えのルートとその周辺地域の支配権を奪回。同盟はこれに抵抗し、1315年のモルガルテンの戦いで、農民歩兵軍を編成して勝利。その後同盟3州は,1291 年の永久同盟を更新する誓約状を採択した。

1353年:モルガルテンの戦い以降、同盟は結束を固め徐々に拡大していった。1332~1352年の間にルツェルン、チューリヒ、グラールス、ツークが同盟に加盟。1353年にベルンが加盟したことにより「八邦同盟」に発展した。

1481年:スイス盟約者団の内部で分裂の危機が発生したが、修道士ニクラウス・フォン・フリューの仲裁により「シュタンス協定」が締結され、和解が成立。対立の原因となったフリブールとソロトゥルンが条件付きで盟約団に加盟し、合計で13州となった。宗教改革によりヨーロッパ各地で宗教戦争が起きたが、スイスは中立の立場を貫いた。盟約者団会議はこの時期、国境保全のために武装中立を宣言した。

1648年:三十年戦争 (1618-1648 ) の後、1648年のウェストファリア条約によってスイスはヨーロッパの全ての権力から自由になり、国際法上スイスの独立が承認された。
1798年:フランス革命の結果、ナポレオンのフランス軍がスイスに侵攻し、エリート指導者層の権力を奪った。一時的に地方主権の制度は破壊され、中央集権制のヘルベティア共和国が樹立した。スイスは歴史上初めて中立を放棄し、フランス占領軍のもとで中央政権によるヘルベティア共和国の新憲法を制定した。

1803年:ナポレオンによる調停法が成立し、スイスの中立を保障した新憲法が発効された。合計19の邦による同盟体の形成が進んだ。

1815年:ナポレオン体制崩壊後に、ウィーン会議最終議定書で合計22邦から成るスイスの永世中立がヨーロッパの列強に承認された。
1848年:分離同盟戦争で自由主義派が保守派を破り連邦憲法が発効され、26州から成る連邦国家スイスが誕生した。
( 出典:スイスワールド )

( 仏語からの翻訳 笠原浩美 )

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SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

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