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変動相場制50年 「金融政策のやり方が分からない」スイス中銀の嘆き

証券取引所
スイスが固定相場制に別れを告げた時、誰もが不安になった。フランクフルト証券取引所のバンカー。1973年 Keystone / Str

1973年に金本位制が完全廃止され、為替相場は安定性を失った。変動相場制に移行したスイスでは、中央銀行さえ混乱に見舞われた。

スイス国立銀行(中央銀行、SNB)は2023年1月9日、22年の決算速報を発表。1320億フラン(約18兆8千億円)と史上最大の赤字を報告した。フラン高を抑えるために外貨を買い続けてきたツケを一気に払わされた格好だ。

スイス経済が強くSNBに依存している状態は、歴史的に見れば日が浅い。この依存状態は50年前の1月、スイスが固定相場制に別れを告げざるを得なくなった時から始まった。swissinfo.chはこの大変革について、2人のスイス人歴史家に話を聞いた。

金本位制との決別

歴史家たちは、1945年から1970年代半ばまでを「経済の奇跡の時代」と呼ぶ。この好況が終了した日はきっちりと決まっている。国際的な通貨制度だったブレトンウッズ体制が崩壊した日だ。

1944年に44カ国が締結したブレトンウッズ協定は、国際的な通貨価値の変動を抑えることを目的としていた。同協定はドルと金(ゴールド)の交換比率を固定した一方、各国は金融政策、主にドルの売買を通じて自国通貨の価値を安定させる義務を負った。

ブレトンウッズ会議
1944年7月、米国ニューハンプシャー州ブレトンウッズで戦後の通貨政策体制が議論された Un Photo

その背景には、1945年以降の国際通貨政策には安定性と予見性が求められたことがある。スイス経済史を研究するトビアス・シュトラウマン氏は、ブレトンウッズ体制はある種、戦時経済を延長したものだったと指摘する。「第一次世界大戦後、世の中は19世紀の自由主義的な経済体制にすぐに戻ったが、それは29年の株価大暴落で終焉した。そのため、第二次世界大戦後はより慎重になり、平時経済への移行が遅れた」

しかし、ブレトンウッズ体制は60年代終盤に崩壊し始める。米国はもはや、全てのドルが金と交換可能な状態にあるという取り決めを守れなくなった。71年、リチャード・ニクソン米大統領はドルと金交換停止を発表し、金本位制を解消した。

シュトラウマン氏は、このニクソン・ショックを「貨幣史上、最大の節目だった。それ以降は印刷された紙だけが存在し、無制限の借金が可能になった。それ以前は、通貨と金が連動していたため制限されていたことだ」と説明する。

スイスは60年代以降、固定相場制を強く支持し続けていた。SNBのマックス・イクレ理事(当時)は1962年、それはスイスの評判を正すことにつながると力説した。国際的ビジネスを展開する我々スイスの銀行が、他国の競合相手から懐疑的な目で見られている。当時の米大統領でさえ、スイスを「タックスヘイブン(租税回避地)」と呼んだ。通貨政策においても「富める者には義務が伴う」――イクレ氏はこう訴えた。

しかし、スイスは73年1月末に固定相場制から離脱する。イタリアでの通貨危機をきっかけに、再びフランへの投資ブームが起きたのだ。当時の財務相ネッロ・チェリオは、SNBは当面ドルを買い増さず、フラン相場を市場に委ねると発表した。

フランは、もはやドルの売買を通じて安定させるものではなくなった。スイスは戦後から続く通貨政策体制に終止符を打ち、いち早く変動相場制に移行した。

変動相場に自国通貨を委ね、外貨の番人となったスイス

この行動の裏でスイスが戦略的熟考を重ねていたと考えるのは誤りだ。連邦内閣もSNBも、ドル買いの停止は短期間にとどまり、じきに再開すると見込んでいた。1971年の時点でも、当時のフリッツ・ロイトヴィラー SNB総裁は変動相場制をどだい「非現実的」だとみなしていた。

変動相場制への移行を決めた時でさえ、ロイトヴィラーは同僚に「変動相場制下での金融政策のやり方が全く分からない」とこぼしていた。しかし同氏は、スイスへの資本流入を阻止するスペシャリストになった。「SNBは自分も全く望んでいないことを行い、また常に即興での対応を迫られた」(シュトラウマン氏)

スネーク制度
ヨーロッパ共同体(EC)のスネーク制度を解説するスイスのテレビ番組。1975年 SRF

実際はSNB自身も、孤立した道を進むことにあまり納得していなかった。早くも75年には、ヨーロッパ共同体(EC)の為替制度「トンネルの中の蛇」への加盟が検討される。この通称スネーク制度は、加盟国による共同フロート制(参加国の通貨間の為替変動幅を固定する制度)だった。チューリヒ大学社会経済史研究センター名誉教授ヤコブ・タナー氏は「同制度は加盟国にとって、後のユーロ通貨制度に向けた予行演習のようなものだった」と話す。「ここで『変動相場制の不確実性を回避するには、安定したブロック(連合体)の中で為替相場を廃止するしかない』というアイデアが生まれ、79年の欧州通貨制度につながった」

しかし、ドイツマルクを中心とするハードカレンシー(安定的で信用性が高く、国際市場で他国通貨と自由に交換可能な通貨)諸国による経済ブロックを阻止したがったフランスの抵抗に遭い、スイスの銀行秘密に対する批判も高まったことから、スイスの加盟は実現しなかった。

工業セクターと変動相場制

スイスが欧州通貨制度への仲間入りを試みたのは、フランが変動相場制によって劇的に値上がりし、輸出産業が打撃を受けたからだった。1970年は労働者の40%が工業セクターに属していたが、その後10年でシェアは32%に減った。それでも大量失業に至らなかったのは、外国人労働者を送り返し、パートタイムの女性労働者を解雇したからにすぎない。労働組合は、景気後退の責任はとりわけこの新たな通貨政策にあるとした。

これを機にスイスで第3次産業化が進んだわけではない。今日、国内総生産(GDP)に占める製造業の割合は25%強で、ドイツ(24%)、イタリア(22%)、フランス(16%)を上回る。

しかし、フランの高い為替相場は、製造業に構造改革を迫った。タナー氏は「スイスで生き残ったのは、とりわけ、厳しい価格競争から逃れられた業界だった。ベルナーオーバーラント地方の町工場でも、先端技術を用いて製造したバルブなら、価格が2倍になっても大した問題ではない。製品は何百万フランもする機械の部品として採用されているからだ。価格よりも重要なのは、品質と国際的サービスだ」と説明する。

シュトラウマン氏も同様の意見だ。「常に値上げ圧力を受け続ければ、企業は専門性を磨きイノベーションを進めざるを得なくなる」。しかし一方で、「スイスが最終的に時計や特殊な医薬品などの高級品しか生産しなくなる」危険が潜むと指摘する。

スイス国立銀行の権限拡大

SNBもその間、手をこまねいていたわけではない。SNBは1974年から、翌年の総通貨供給量の予測を開始した。シュトラウマン氏は「そうすることで、ある程度の目安を示すことができた。経済成長に必要な資金を供給した」と語る。

それでもフランは高騰を続けた。

1975〜76年の2年間でGDPは7.15%縮小した。経済危機に揺れた70年代の中でも、世界最悪の数字だった。78年には、フランの対ドル相場は9カ月で3割も急騰した。シュトラウマン氏は「フリードマンは、為替相場の変動幅を過小評価した。人々は市場が為替相場を上手い具合に調整してくれると考えていた。70年代の揺れ幅を予想していなかった」と分析する。

スイスは当初、例えば自国に流入する資本をコントロールするといった旧来の解決策を取ろうとしたが、あまり効果はなかった。ドルだけでなく、長い間フランの指標通貨だったドイツマルクも弱体化した。

SNBは新たな手法に踏み切らざるを得なくなった。ドイツマルク買い・フラン売り介入でフラン価格を押さえつけた。当時革新的だったのは、相場の目標値を公表した点だった。1978年10月、SNBは「1ドイツマルク=0.8フランを大幅に上回る」ように介入すると発表。為替ディーラーが受け入れるまで、フラン売りが続けられた。為替相場に目標値を設定し、為替介入でそれを保守する――後年、繰り返し使われることになる戦略だ。

変動相場制が導入されて初めて、中央銀行は自律的に金融政策を行う可能性が生まれ、SNBは議会の介入を受けずに決定権を持つプレーヤーになった。タナー氏は「独立した中央銀行が必要な理由はもちろんある。特定の利益団体に翻弄されるのを防ぐ」と指摘する。

「だが変動相場制への移行以降、SNBは排他的な小所帯から独自の調査部門を有する大組織に変身した。SNBは経済政策全体に大きな責任を有する。したがって、活動報告の義務を民主的に果たさなければならない。独立性は、そうした責任を免除するものではない」

独語からの翻訳:アイヒャー農頭美穂

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