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教育と称して少女を工場送りに スイスで1970年代まで続いた強制労働 

Mädchenheim
女子寄宿舎で働き、暮らす女性たち。賃金は寄宿舎に直接支払われ、食費や家賃、健康保険料など個人的な出費に充てられた、1970年撮影 Keystone

スイスでは1970年代半ばまで教育という名の下に強制労働が行われ、スイスの工業界もその恩恵を受けていた。

第2次世界大戦が勃発する数カ月前、スイスは国会で強制労働を禁止する条約外部リンクへの加入を決定した。同条約は今日まで効力を持つ。

しかし加入するのは単に倫理的な理由からだった。政府は同条約について、スイスには関係なく、「植民地の原住民の労働」にのみ適用されると記した。

この認識は全くの誤りだった。強制労働が行われていたスイスこそがこの条約に該当した。しかしこれが明らかになるまでには、数十年を要した。その間、数千人が行政の「保護」による悲運に見舞われた。

寄宿舎の少女を工場にあっせん

リーゼロッテ・Sさん(82)もその1人だ。他の何百人もの十代の少女たちと同様、「事後教育」を理由に民間企業の工場宿舎へ入れられた。1960~62年、リーゼロッテさんはアッペンツェル・アウサーローデン準州ヴァルツェンハウゼンのゾンネンベルク女子寄宿舎に軟禁された。このような宿舎では入居者をスイス企業の工場で働かせることで資金を工面していたが、入居者に賃金は支払われなかった。

「私語禁止!秩序をもってやり遂げろ!」というスローガンが書かれた横断幕
「私語禁止!秩序をもってやり遂げろ!」。強制労働のモチベーションを高めるため、女子寄宿舎にはスローガンが書かれた横断幕が掲げられた RBA/Staatsarchiv Aargau/Reto Hügin

商業登記簿にも登録されているこの寄宿舎は、好景気の時には2社から入居者のあっせん手数料まで受け取っていた。

ヴァルツェンハウゼンのこの寄宿舎には厳しい規則があった。逆らう者は拘禁する。脱走者は探し出す。脱走後に帰還を拒否する者はしばらくの間監房に幽閉されるだろう。リーゼロッテさんのように。リーゼロッテさんは「これに対して誰も責任をとらなくてよいというのは重大な不正義だ」と語る。

リーゼロッテさんは1960年3月22日にヴァルツェンハウゼンにやって来た。狂乱の60年代が始まったばかりの頃だ。スイスではドイツ語歌謡曲「Itsy Bitsy Teenie Weenie Honolulu Strandbikini(邦題:ビキニスタイルのお嬢さん)」がビーチスタイルを大きく変えていた。

教育と称し、私立女子寄宿舎では単調な工場労働が行われていた。賃金は寄宿舎に直接支払われ、食費や家賃、健康保険料など個人的な出費に充てられた。

リーゼロッテさんは今日、多くのことを当時よりも批判的に見ていると言う。「寮長がいかに私たちを搾取したか。不自由であることを利用したか。とてもひどいことだと思う。当時はそれが私たち少女にとっては普通だった」

拘束生活の費用を自ら稼ぐ

搾取は構造的だった。国は10代の少女を軟禁するのにこのお金を使った。ベルン当局はリーゼロッテさんにわざと費用が掛からない施設を選んだ。

リーゼロッテさんの年金証書には、国が強制労働に基づいた「給付金」でいくら貯蓄したか詳しく記載されている。リーゼロッテさんは軟禁されていた33カ月間に書類上では8475フランの収入を得た。現在の価値に換算すると約3万4千フラン(約500万円)相当だ。諸費用が引かれた後に貯金通帳に残ったのはそのうちのたった1%だった。21歳で寄宿舎を出ると、手に職もなければお金もなかった。

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被害者ポートレート 国に幼少期を奪われた人々に光を当てる

このコンテンツが公開されたのは、 1981年までスイスでは、社会規範にそぐわないという理由から、国の児童養護制度によって罪のない子供たちが強制的に里子に出されたり、児童養護施設や少年院に収容されたりした。こうした行政措置の被害を受けた人たちの苦しみに光を当て、ポートレート写真とともにその体験と思いを刻んだ本が出版された。

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ベルン州政府は自らの行いに自覚的だった。1960年4月29日のベルン州政府の「未成年の教育保護施設への行政措置としての移送」に関する議事録には、リーゼロッテさんが「事後教育」の一環として「教育養護施設」で「様々な工業施設で働き、自ら生計を立てる機会を得た」と記されている。当時の成人年齢は20歳だった。

リーゼロッテさんは11歳にして「婚外子」として母親の必死の抵抗にもかかわらず、外部に預けられた。19歳の時、同年齢の男性とたった1度映画館に行ったことを当局に問題視された。「少なくとも家庭保護期間中に少女を婚外妊娠から守る」には施設に入れるしかない、と州政府への申請書類に記されている。州政府はこの馬鹿げた主張を引き継ぎ、予防措置的な軟禁を指示した。理由は、リーゼロッテさんは「道徳的発達において非常に危険な状態」にあるため、とされた。

リーゼロッテさんの境遇を当局は「仕事のための教育」と正当化した。ヴァルツェンハウゼンは例外ではなかった。同様の工場宿舎はトッゲンブルクに位置する隣村のルッツェンベルクやグラールス地方、ソロトゥルン州にもあった。やはり福祉当局から労働義務を課せられた若者を受け入れていた。

1941年以降、国際的な強制労働条約によって禁止されていたにもかかわらず、こうした事態は起こった。条約で強制労働は「人が処罰の脅威の下に強制される」労働と定義される。裁判の判決なしに国は誰に対しても労働義務を課すことはできない。

工場宿舎の一室
工場宿舎の一室、1970年 Keystone

しかし「生活保護」ではこのようなケースがしばしばあった。工場宿舎にいた女性たちは、有罪判決を受けた罪人ではなかった。リーゼロッテさんのように、もともと「保護を受けている」子どもだったというだけで青年期に工場に送られた。貧しく、婚外子か、親が離婚した子どもという理由で。

「保護を受けている」少年少女は罪を犯した少年少女よりも法的に悪い状況に置かれることが多かった。スイス刑法では1942年以降、有罪判決を受けた少年少女に職業訓練の機会を与えることを義務付けた。「保護を受けている」少年少女はこれに対し農場や工場で強制的に働かされた。多くが職業訓練を受けることを許されなかったため、施設退所後、戦後期の社会で貧困から抜け出すチャンスは少なかった。

工業分野における経済成長の始まりと共に工場宿舎はますます人気になった。労働力不足と好景気に乗じて、強制労働を前提とした福祉と工場労働が結びついた。地域によっては福祉当局と工場運営会社は驚くほど緊密に協力して仕事をし、お互いに利益を得ていた。

遅すぎる終わり

しかし戦後期も終わりに近づく頃には、政治的に強制労働を正当化するのは難しくなってきた。特に強制労働条約批准国が条約を遵守しているか監視する国際労働機関(本部:ジュネーブ)に対してごまかせなくなってきた。国際連合に属する同機関は1949年にすでに、スイスに対して質問状を送るようになっていたが、強制労働に関する役所的な「ごまかし」を鵜呑みにせず、食い下がるようになったのは1967年になってからのことだった。同機関は、スイスが強制労働条約第29号に違反していることを明確に指摘した。

労働を命令できるのは裁判官だけであり、その他は全て強制労働である。スイスは1969年に欧州人権条約に留保付きでしか加盟できなかった。国民議会(下院)の委員会広報担当者はその第1の理由として「施設入所措置に関する州法に、この行政措置の司法審査を規定していないものがある」ことを挙げた。また5番目の理由として「女性の参政権の欠如」が挙げられた。

このような背景から、当時のルートヴィヒ・フォン・モース連邦大統領は初めてはっきりと発言した。1969年に国民議会で「行政措置と強制労働の結びつき」がありうると認めたのだ。施設入所に関して問題なのは裁判所の判断の欠如だけではなく「場合によっては行政措置が強制労働に関する国際条約に違反する」と述べた。法務大臣はこれに伴いスイスに強制労働が存在することを公式に認めた。これは行政による強制措置の終わりの始まりだった。1981年以降、この行政措置は認められていない。

Yves Demuths氏は「Schweizer Zwangsarbeiterinnen. Eine unerzählte Geschichte der Nachkriegszeit(仮訳:強制労働を強いられたスイスの少女たち。戦後の語られざる物語)」(2023年)の著者 。

独語からの翻訳:谷川絵理花

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