米関税がスイスの製薬大手にもたらした試練
スイスの製薬会社は、関税引き下げ合意と引き換えに米国での研究・製造分野への大規模投資を計画している。しかし、スイスの製薬業界の優位性を揺るがす要素はこれだけではない。
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米国とスイスは14日、米国がスイスに課す相互関税が39%から15%に引き下げられることで合意したと発表。医薬品は当面、関税の対象から除外されることでも決着し、スイスの製薬業界は祝賀ムードに包まれた。
仮にドナルド・トランプ米大統領が新たな分野に関税を課す場合でも、医薬品への関税率は15%に制限される。これは、トランプ氏が今夏示したブランド医薬品への関税率200%に比べはるかに低い。
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ノバルティスとロシュ、米国に巨額の投資
この関税合意はまだ最終決定されていない。だが合意成立を後押ししたのは、スイスの製薬大手ロシュとノバルティスによる巨額の投資計画だった。両社は今後 5 年間で計730億ドル(約11兆4000億円)の米国投資を約束。米国患者向けにすべての主要医薬品を米国国内で生産することを目指している。
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トランプvs世界の製薬業界 2025年の主な出来事
「これは米バイオ医薬品製造にとっての規模のみならず、スイスの企業が過去に投資してきた額と比較しても、極めて重要な投資だ」と、米外交問題評議会の上級研究員で医療サプライチェーンの専門家であるプラシャント・ヤダブ氏は話す。「これらの投資は、米国が将来の先進治療薬の製造拠点になることを示している」
チューリヒのコンサルティング会社ヴェラーズホフ・アンド・パートナーズの経済調査責任者ヨハネス・フォン・マンダッハ氏は、これらの投資が国内製薬業界に与える影響はまだ不明だと指摘する。しかし、スイスでは既に、これらの投資が同国の製薬ハブとしての魅力をさらに低下させ、業界の成長を損なうのではないかという懸念が強まっている。
製薬業界はスイス経済成長の約半分、米国向け輸出の60%を占める。フォン・マンダッハ氏は、米国への生産移転によってスイスは約30億フランの税収を失うと試算する。
「この投資が、スイスの国内生産を米国に置き換えるのか、それとも主目的が現地での成長を直接支えることがなのかは、判断が難しい」とフォン・マンダッハ氏は指摘する。「しかし後者であっても、スイスには顕著な影響が及ぶだろう」
製薬投資を巡る競争激化
今回の関税合意は、数十年続くスイスの製薬業界の優位性に新たな衝撃を与えた。人口900万人のスイスでは、約5万人が製薬業界に直接雇用されている。ロシュとノバルティスだけで約2万5千人を国内雇用する。これは両社の世界従業員数の10~15%に相当する。
製薬産業は、大学発スタートアップ、研究重視のバイオテック企業、受託製造業者、サービスプロバイダーなど数千の中小企業を包括する。米企業バイオジェンや日本の武田薬品工業など多くの外国製薬企業が、欧州・世界本社をスイスに置く。
しかし、製薬産業をハイテク雇用とイノベーションの源泉と捉える他国との競争が激化している。米ブルームバーグは最近、研究費への優遇税制、迅速な規制プロセス、強固な医療制度により、スペインが新規製薬投資の主要な目的地となっていると報じた。アストラゼネカ、サノフィ、ロシュはいずれも過去数年間で同国への研究開発投資を拡大している。
中国も主要なイノベーション源、あるいは成長中の消費市場として台頭している。多くの企業がバイオテクノロジー分野に参入しようと中国に研究拠点を設立している。英ネイチャー誌の報告書によれば、過去5年間で11の大手製薬企業が中国から新薬のライセンス取得に1500億ドル以上を投じた。
医薬品輸出のうち、実際にスイス国内で生産された分と、スイス経由で輸送されたり包装・流通されたりする分の割合に関する信頼できる統計は存在しない。生産プロセスは高度に分断化され、多くの中間製品は製造過程で国境を複数回越える。その結果、対外貿易統計はスイス国内で実際に生み出された生産量と付加価値を大幅に過大評価している可能性がある、とチューリヒのコンサルティング会社ヴェラーズホフ・アンド・パートナーズの経済調査責任者ヨハネス・フォン・マンダッハ氏は説明する。
より多くの政府が、医薬品の供給をグローバルサプライチェーンに依存するよりも、自国での生産を望む。次世代治療法は患者に近い場所で生産されることで利点を生むため、一部の国では生産の現地化が進む。
特に、製造が複雑で患者の血液サンプル採取や頻繁な通院を必要とする細胞・遺伝子治療がこのケースに該当する。
既存の医薬品ハブは逆風に直面
一方で、英国・日本・スイスなどの既存ハブにおける規制環境や価格設定に対し、企業からの批判が高まっている。
日本は世界第3位の医薬品市場だが、厳しい価格統制が新薬発売の阻害、イノベーションの抑制につながるとして、国際製薬企業からそっぽをむかれつつある。
2025年9月、MSD(米国ではメルクとして知られる)は、医薬品価格の圧力と英国政府によるライフサイエンス分野への投資不足を理由に、10億ポンド(約2300億円)規模に上るロンドン研究拠点からの撤退と、英国での研究開発(R&D)終了を発表した。
ノバルティスとサノフィの最高経営責任者(CEO)は4月、英紙フィナンシャル・タイムズへの寄稿で、欧州がイノベーションを適切に評価していないと批判。欧州の価格統制が市場の魅力低下を招いていると指摘した。また、欧州がバイオ医薬品分野のリーダーであり続けたいなら、米国水準に合わせ欧州の薬価を引き上げるべきだとするトランプ氏の主張を支持した。
スイス、製薬業界の成長が鈍化
医薬品価格を巡り国内保健当局と衝突した製薬業界は、スイスを標的にしている。スイスの消費者市場は規模が小さく、米国のような主要市場と比べ反撃力が劣る。
業界団体インターファーマの広報担当者ゲオルク・デーレンディンガー氏は「このため、米国やその他の国々での生産の現地化が進むと、スイスの医薬品拠点としての地位が弱まるリスクがかなり高い」と話す。
臨床研究の強化や欧州連合(EU)との二国間協定確保に加え、スイスは「革新的医薬品の価格設定を近代化し、さらなるコスト削減策を控える」ことが急務だという。
2018年から2023年にかけて、外国投資家はスイスから5600億フランを引き揚げた。これが現在、製薬業界の雇用に響いている。インターファーマによると、雇用増加率は2011年から2020年までは年2.5%だったのに対し、2020年から2022年は0%に低下した。
スイスの強みは産業基盤と安定性
スイスインフォが取材した専門家は、スイスの状況が必ずしも全て悲観的ではないと指摘する。米国との合意により関税は回避されている。スイス製医薬品に高関税が課されていたら、国内産業に深刻な打撃を与えていただろう。
製薬企業が集まるバーゼル地域ビジネス・イノベーション機構のクリストフ・クレッパーCEOは「スイスは欧州市場に加え、米国以外の世界市場向けにも生産を継続する」と述べた。「米国への投資はスイスと競合しない。大手ライフサイエンス企業による重要な追加投資だ」
ヤダブ氏は、スイスは堅固な研究開発基盤があるため、他国より変化への耐性が強いと指摘する。これと対照的なのがアイルランドで、同国は1950年代に世界の製薬製造拠点となったものの、現在では研究開発活動が極めて少ない。
特に「細胞療法や遺伝子治療といった新治療法は、研究開発と商業生産の境界を曖昧にする」ため、この傾向が顕著だという。これらの治療法は、生産・流通に高度な専門知識と厳格な品質基準を必要とする場合が多く、スイスはその点で優位性を堅持する。
ノバルティスなどは、初期研究や臨床試験のために地元の病院や大学と数百件の提携を結んでいる。ロシュは2009年以降に本社拠点へ投資した約58億フランの一部として、最近12億フランを投じ初期研究センターを新設した。
スイスにはさらに、高賃金・低税率・高い生活水準・安定した政策といった人材誘致の利点もある。恒瑞医薬(Hengrui)、陸葉製薬(Luye Pharma)、百健(BeOne Medicines、旧称BeiGene)など複数の中国企業が最近、スイスに研究開発センターや欧州本社を設立した。
フォン・マンダッハ氏は「産業クラスターは、専門性の高い人材、適切なインフラ、長年にわたり蓄積された専門知識が存在する場所で生まれる」と指摘。「これによりスイスのような場所は極めて安定しており、急な移転はほぼ起こり得ない」と話している。
編集: Veronica DeVore/ds、英語からの翻訳:宇田薫、校正:大野瑠衣子
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