
地雷廃絶訴えるカンボジア人活動家、相次ぐ条約離脱に警鐘

対人地雷廃絶を訴え続けてきたカンボジア人活動家トゥン・チャンネレス氏が、ジュネーブで開催された対人地雷禁止条約(オタワ条約)締約国会議の会期間会合に参加し、条約の存続を呼びかけた。近年、東欧諸国の一部加盟国が同条約からの離脱を示唆する中、条約を支えてきた当事者として危機感をあらわにしている。
「あなたは平和を望みますか?」
ジュネーブ国際会議場(CICG)に響き渡ったカンボジア人活動家チャンネレス氏の問いかけに、対人地雷禁止条約(オタワ条約)締約国会議の会期間会合(6月17日~20日)に出席した各国の外交官らは一斉に「イエス」と応え、拍手喝采が起こった。
その後の取材で、チャンネレス氏は「予定にはなかった発言だったが、口で平和を語るのは簡単、必要なのは行動だ」と苦笑いを浮かべた。外交上の建前には慣れているのだろう。
現在65歳のチャンネレス氏は30年以上にわたり、両陣営の兵士、そして子どもの命を無差別に奪い続ける地雷の廃絶を精力的に訴えてきた。
地雷の脅威をチャンネレス氏は身をもって知っている。1982年12月18日、当時22歳だった同氏は、カンボジアとタイの国境地帯でロシア製の地雷を踏み、両足を失った。
チャンネレス氏は、生まれ故郷カンボジアでクメール・ルージュと戦っていたベトナム軍に加わった若き兵士だった。志願したのは「食べ物と衣服」を得るためだ。すべてを失っていた彼にとって、それが唯一の選択肢だった。
「2025年にまた失望させないで」
事故から40年以上が経過した今もなお、チャンネレス氏の闘いは続いている。同氏はジュネーブで開催される対人地雷の使用や生産、移譲を禁止するオタワ条約の締約国が集う会期間会合に出席するため、前日にプノンペンから現地入りしていた。1997年の当条約成立にはチャンネレス氏も尽力し、立役者となったが、現在、一部の加盟国が離脱を示唆している。
現時点でオタワ条約に署名していない国として、米国、中国、ロシアが挙げられるが、ここにきてロシアやベラルーシと国境を接しているエストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、フィンランドの5カ国が、ロシアのウクライナ侵攻を受けて再軍備を進める中、条約からの脱退を検討していた。
エストニア、ラトビア、リトアニアは6月27日、国連にオタワ条約からの離脱を正式に通知し、フィンランドもアレクサンデル・ストゥブ大統領が7月4日、条約からの脱退を承認した。
「まさかこの条約から離脱する加盟国が出るとは想像もしていなかった」とチャンネレス氏は厳しい表情で語る。同氏は、実現は難しいと承知しつつも、これらの国の正式な離脱を思いとどまらせるために、あらゆる手段を講じる心積もりだった。そのため、ジュネーブでは各国の外交代表との会談を希望した。
演説を終えたチャンネレス氏は、自ら設計した車椅子を巧みに操り、外交官の列を縫っては、「2025年にまた失望させないでほしい。対人地雷禁止条約から離脱しないで」と書かれた小さなカードを配布し、支援を訴えた。
とある外交官がチャンネレス氏に写真を撮ろうと呼び掛けると、バルト諸国の代表二人がそっと出口へと向かった。チャンネレス氏は素早く振り返り、すかさずカードを手渡した。

死の淵からノーベル賞受賞へ
チャンネレス氏は内戦により荒廃したカンボジアで育った。当時のカンボジア共産党クメール・ルージュ政権が主導した大量虐殺では、人口の四分の一が命を落としたが、チャンネレス氏の家族も例外ではなく、15歳の時に父と姉妹と死別した。
4年後、その他の家族と生き別れたチャンネレス氏は、国境を越えてタイの難民キャンプに避難した。だが、キャンプでは、男性はいかなる援助も受けられない状態だった。「3日間何も食べずに過ごした後」、チャンネレス氏はクメール・ルージュと戦うベトナム軍に志願した。
やがて抵抗軍の兵士として戦場に出たチャンネレス氏は、カンボジアとタイの国境付近で地雷を踏んだ。森の中で、激痛に打ちひしがれた同氏は、斧で命を断とうとするが、傍らにいた友人に止められた。彼は病院に運ばれ、両脚を切断された。
「生きる希望を失っていた」とチャンネレス氏はうつむきながら打ち明ける。当時、妻が初めての子どもを身ごもる中、病院のベッドに横たわる同氏は、将来の見通しが立たなかった。それから数年間、過酷な年月が続いた。
転機が訪れたのは1993年になってからだ。チャンネレス氏は、米国のNGO「イエズス会難民サービス(JRS)」のプノンペン支部に所属し、地雷被害者向けの車椅子製作に従事していた。また、障がいのある子どもたちが活動的な生活を送れるよう支援した。
カンボジアは、数十年にわたる紛争で堆積した地雷などの非人道兵器によって最も汚染された国の1つとして知られる。1970年代以降、6万5000人以上の被害者が記録されており、そのうち約2万人が死亡している。1990年以降の多大な除去努力にもかかわらず、推定では400万から600万個の地雷や不発弾が地中に埋まったままだ。
ある日、チャンネレス氏がアトリエで制作に励んでいると、近くで爆発音が響いた。「おそらく地雷だろう」と同氏はNGOの上司に説明した。続く上司の回答がチャンネレス氏の人生を変えるきっかけとなる。「あなたに新しい任務を命じる。地雷を禁止してほしい」

チャンネレス氏はただちに地雷廃絶に向けたキャンペーンを展開した。地雷サバイバーの支援を受け、1年未満で対人地雷禁止を求める100万人超の署名を集め、カンボジア国王や首相に提出する。1997年には地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)の一員としてノーベル平和賞を受賞した。
ICBLの創設者兼コーディネーターのジョディ・ウィリアムズ氏と共にオスロでノーベル賞を共同受賞するよう上司に告げられ、チャンネレス氏は「ただ仕事をしているだけで、なぜ受賞するのか」と返したという。「メダルが本当に金なら売ってもいいかと上司に訊ねると、『だめだ』と言われた」と同氏は笑いながら回想する。「貧しかったので、お金が必要だった」
冗談交じりに語ったチャンネレス氏だが、1999年のカンボジアによるオタワ条約批准は「誇らしかった」と振り返る。

子供たちには異なる未来を
オタワ条約には現在165カ国が加盟しているが、国連加盟193カ国の中では依然として中国、米国、ロシアといった主要大国は不参加のままだ。
チャンネレス氏は地雷のない世界に思いを馳せ、「最後の日まで活動を続ける」という。「各国政府が条約から抜けるのを阻止するために全力を尽くしたい。そして、まだ署名していないすべての人々に、この条約に署名するよう促していく」
チャンネレス氏の主張は簡潔で力強い。「私の傷を見せて、仲間や自身の子どもたちがこのようになっても構わないのかと問いたい。それを望まないのであれば、条約から離脱してはならない。自国を地雷で荒廃させないでほしい」
編集:Virginie Mangin/sj/ds、仏語からの翻訳:横田巴都未、校正:大野瑠衣子

JTI基準に準拠
swissinfo.chの記者との意見交換は、こちらからアクセスしてください。
他のトピックを議論したい、あるいは記事の誤記に関しては、japanese@swissinfo.ch までご連絡ください。