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ルノワールも学んだ 印象派のスイス人画家 シャルル・グレール

シャルル・グレールの自画像
シャルル・グレール の自画像、1830年から1834年 Cantonal museum of fine arts Lausanne

スイス生まれの画家シャルル・グレール(1806-1874)は19世紀を代表する画家だ。パリのアトリエで、アルベール・アンカーやオーギュスト・ルノワールら作風の異なる画家たちを育てた。グレール自身、ロマン主義と印象派のはざまに立つ存在だ。

この記事はスイス国立博物館ブログ外部リンク2025年2月18日に掲載された記事外部リンクです。

ロマン主義の英雄マンフレッドを覚えている人はいるだろうか。 19世紀、マンフレッドは一種のポップスターのような存在であり、ゲーテの「ファウスト」のように知識を求め、それに絶望した。マンフレッドは1817年、詩人で社交界の「ダンディ」でもあったバイロン卿が同名の劇詩のために創作した。

今日では、この物語はむしろ風変りに映る。まず、マンフレッドは降霊会に参加し、精霊たちに忘却の力を授けてほしいと願う。しかし、それが叶わず彼は崩れ落ちる。ここまではまだ理解できる。しかし翌日、彼はユングフラウ山の頂上で目を覚まし、そこから身を投げて死のうととする。

ヤギ狩りが土壇場でそれを阻止する。精霊たちが沈黙していた理由を知る場面を経て、マンフレッドは再びユングフラウへと戻る。再び降霊会に参加し、またしても失敗に終わる。

シャルル・グレールをはじめとする多くの画家が、この場面を描いている。

「アルプスの精霊を呼び出すマンフレッド」、シャルル・グレール作、1825年頃。
「アルプスの精霊を呼び出すマンフレッド」、1825年頃 Schweizerisches Nationalmuseum

私たちにとって、この絵は少なくともバイロンの作品と同じくらい奇妙に映る。まるでスイス衛兵隊の巡回兵のような縞模様のズボン、山登りに適したとは言い難い尖ったブーツ、まるで断崖で自撮り写真を撮ったかのような、滑稽で芝居がかったポーズ。

ただ少なくとも、光の演出のおかげで幽霊のような雰囲気が見事に表現され、現代のファンタジーファンにも魅力的に映るだろう。もちろん、ヴォー州シュヴィイ出身のグレールは、ユングフラウを遠くからしか見たことがなかった。

バイロン卿もまた、マッターホルンが1811年に初登頂されたことを、1816年夏のスイス滞在時に耳にした程度だった。グレールの傑作は1825年頃に制作された初期の作品だ。彼が成功を収めたのはもっとずっと後、横長の大きな絵画「Le Soir(夕べ)」だった。

「夕べ」または「失われた幻影」1843年頃
「夕べ」または「失われた幻影」1843年頃 Musée du Louvre

この感傷的な傑作は、1843年、当時芸術の中心地だったパリで毎年開かれる美術展「絵画・彫刻サロン」で、グレールをスターの座に押し上げた。

夕暮れ時のおとぎ話のような小舟に乗り、古風な衣装をまとったミューズたちが思い思いに過ごし、その傍らで老人が物思いにふけるーーそんな画風は当時の人々の心に深く響いた。

この絵は、アルフレッド・ド・ミュッセのような詩人たちが「世紀の病(マルク・ディユ・シエクル)」と形容した世紀末的な憂鬱を投影した作品だった。ルイ・フィリップ国王のいわゆる「七月王政」の時代、もはや自分の将来に展望を見出せず、往時の理想を嘆き悲しむ世代全体を魅了した。

ナポレオン戦争は敗北し、ブルジョワ階級の七月革命は失敗に終わり、保守勢力が支配権を握った。グレールのこの絵は、たちまちバルザックの名作小説「失われた幻想」の絵画版と解釈され、ルーヴル美術館に収蔵された。

シャルル・グレールの自画像、1830年から1834年の
シャルル・グレールの自画像、1830年から1834年の間 Musée cantonal des Beaux-Arts de Lausanne

グレールは当時の美術界で苦労の末に頂点へと上り詰めた。スイスでは芸術意識が未発達で、正式な美術教育も存在しなかったため、グレールはリヨンとパリで水彩画家などとしての修行を積んだ。

その後、多くの同僚と同様にイタリアへ赴き、自身のスケッチブックを埋めていく。しかし、1828年から数年間のローマ、ヴェネツィアの滞在費用の捻出には苦労した。スイス国籍であるグレールは、ローマのヴィラ・メディチでの滞在費を賄う仏ローマ賞のような奨学金を受ける資格がなかった。

そのため、当時ヴィラ・メディチの館長で、グレールの友人でもあった画家オラース・ヴェルネから、ボストンの実業家ジョン・ローウェルの紹介を受けたのはまさに幸運だった。

ローウェルは、1834年からギリシャを経てエジプト、そして最終的にはインドへと続く東方旅行の同行者として、デッサン画家および水彩画家を探していた。写真技術が発明される直前、これは旅行を視覚的に記録する一般的な方法だった。

ローウェルとグレールは、特に気候や感染症に悩まされるようになったこともあり、意見の相違からエジプトで袂を分かった。

それでもそれまでの間、グレールは印象的な水彩画を数多く制作した。そこには当時すでに知られていたファラオ時代の建造物に加え、地元の人々をも描きとめていた。

東洋への長旅で受けた強烈な印象が、彼の作品作りに大きな影響を与えた。例えば「夕べ」は、流行のナイル川での舟遊びを彷彿とさせる。アンピール様式の陽気なピンクのリボンは、まるでパリの婦人帽子職人が結びつけたかのようだ。

スイスの美術史家ミシェル・テヴォは、2016年にパリのオルセー美術館で開かれたグレールの大規模な作品展で講演した際、この「夕べ」は、自己懐疑に陥ったグレールの芸術姿勢の初期的エッセンスだと評した。

テヴォによれば、絵画の端に描かれた憂鬱な老人は、アカデミックな新古典主義様式と格闘する画家自身の姿を体現している。そこから脱却することはできなかったものの、そのスタイルがいかに不毛で陳腐だったかを痛感していたに違いない。なぜならこの様式は、画家を舞台美術家という疑わしい役割へと追いやり、古臭い物語を現代の観客に受け入れられるように小道具を巧みに操る役割を担わせたからだ。

この最新の解釈によれば、グレールは過去の芸術的理想に固執していた。そのため、産業化と近代化の激動によって不安定さと神経質さを募らせていく社会を、彼は十分に理解できなかったのだ。

実際、グレールは、詩人シャルル・ボードレールが1863年の有名な随筆集で理想像として掲げた「近代生活の画家」にはなれなかった。しかし、次第に陳腐化していく美学から新たな生命を吹き込む術を知っていた彼のような芸術家は、大衆に非常に人気があった。

これは、ボードレールのようなモダニストとは異なり、大衆は時に不安を伴う新たな地平への旅立ちよりも、むしろ馴染みのある世界のバリエーションを好んだからだ。

とはいえグレールはエジプトで患った眼の感染症の影響で制作が停滞し、「夕べ」でのパリでの成功をすぐに次作で継ぐことはできなかった。しかし、やがてローザンヌで才能が認められ、公的な依頼を受けるようになった。

最初に手掛けたのは18世紀の一場面、スイス・ヴォー州がベルンからの独立を求めた闘争中で反乱を起こしたダヴェル少佐の処刑を描いた。 1850年に完成し、熱狂的な反響を呼んだが、1980年、ローザンヌ美術館で破壊行為に遭い、それ以外ほぼ完全に破壊されたままとなっている。

「ダヴェル少佐の処刑」、1850年
「ダヴェル少佐の処刑」、1850年 Musée cantonal des Beaux-Arts de Lausanne

グレールの共和主義的傾向は、もう一つの国家的主題を扱った歴史画、1858年の「くびきにつながれたローマ人」にも表れている。この作品は、ヴォ―地方の人たちによって打ち負かされたローマ人植民者たちの伝説を描き、再び成功を収めた。

「くびきにつながれたローマ人」、1858年
「くびきにつながれたローマ人」、1858年 Musée cantonal des Beaux-Arts de Lausanne

スイスのドイツ語圏では、グレールの作品の真価を真に認めていたのはバーゼルの美術館だけだった。バーゼル美術館のために制作された大作「メナドに追われるペンテウス」は、グレールの劇的感覚と卓越した光の演出を改めて示している。

「メナドに追われるペンテウス」、1864年
「メナドに追われるペンテウス」、1864年 Kunstmuseum Basel

グレールはナポレオン3世への抗議からパリの「サロン」への出品をやめ、自己不信に悩まされていたとはいえ、パリでの存在感は非常に大きかった。

なぜなら「夕べ」の成功後、画家ポール・ドラローシュの後を継ぎ、パリに自身のアトリエを教育の場として確立することができたからだ。

当時、公式のアカデミー教育が誰にでも開かれていたわけではなく、他方では次第に硬直化したものとみなされるようになっていた時代だ。そうしたなかで、パリでは著名な芸術家のアトリエが、教育、交流、そしてネットワーク作りの場として重要な役割を果たしていた。

グレールは、体系的なカリキュラムを提供し、教師としても高い評価を得ていた。自身も優れた素描家であった彼は、デッサン指導に最も力を入れた。

しばしば資金難に陥りながらも、授業料を控えめに抑え、また芸術的にも寛大だった。生徒たちに特定のスタイルを押し付けることはなかった。

だからこそ、500人以上の弟子の中には、アルベール・アンカーやオーギュスト・ルノワール、ジャン・レオン・ジェローム、アルフレッド・シスレー、ジェームズ・ホイッスラーやフレデリック・バジールといった、実に多様な個性がグレールのもとで学んだ。

「グレールのアトリエでのセッション」、アルフレッド・デュモン作、1857年
「グレールのアトリエでのセッション」、アルフレッド・デュモン作、1857年 Musée d’art et d’histoire de la Ville de Genève

グレールは、自らがその中心に立つことはなかったものの、芸術における差し迫った大変革を認識していた先駆者であり、その扉を開いた人物でもあった。

やがて印象派が台頭し、冷ややかな古典主義的アカデミー絵画やサロン絵画に取って代わっていく。それらはもはや、自らの様式的コードを反復・再生産するだけになりつつあった。

グレール自身もためらいながらではあるが、独創的な形で近代へ歩み寄っていた。たとえば「大洪水」では、今日の視点から見るときわめて現代的に響く黙示録的風景を描いている。コラージュのように配置されたラファエル前派風の天使の群れは、まるでシュルレアリスムを先取りしているかのようだ。

「大洪水」、1856年
「大洪水」、1856年 Musée cantonal des Beaux-Arts de Lausanne

グレールの教え子数人が1884年にパリで開かれた「アンデパンダン展」に参加し、印象派の躍進に貢献した。1863年の「落選展」は、既にフランス美術界を支配していたアカデミー・デ・ボザール(国立パリ高等美術学校)の覇権を覆すものだった。

しかし、1873年に成立した改革は、グレールのアトリエのような独立系教育機関を弱体化させた。グレールは1870年にアトリエを閉じ、普仏戦争のためスイスへ帰国した。そこで1874年に死去するまで、依頼を受けて肖像画を描き続け、「地上の楽園」などの大規模な作品に取り組んだ。

グレールの評判は当時、アメリカにも届いていた。アメリカの鉄道王であり収集家でもあるジョン・テイラー・ジョンストンは、ニューヨークのメトロポリタン美術館の初代館長でもあり、グレールの作品「入浴」をアメリカのコレクションとして初めて迎え入れた。

「入浴」、1868年
「入浴」、1868年 Chrysler Museum of Art

肖像画家として成功を収めたにもかかわらず、グレールは台頭しつつあった自由な美術市場から恩恵を受けることはなかった。そのため、彼の作品の多くは公立美術館、特にローザンヌの美術館に多く残されている。

グレールの作品は不安と変革の時代に直面した芸術的課題を描くと同時に、確かな美的価値への憂鬱な憧憬を表している。

バーバラ・バスティングは文化編集者として活動。現在はチューリヒ市文化局美術部門の責任者を務める。

※作品名は原則、仮訳です。

独語からのDeepL翻訳:宇田薫

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