
「声高に叫ぶ必要はない」ミロスラフ・シクの建築、スイスで最も権威ある芸術賞に輝く

スイスとチェコを拠点とする建築家ミロスラフ・シク(72)が今年、スイスで最も権威ある芸術賞のメレット・オッペンハイム賞を受賞した。世界の建築界を牛耳る大胆で自己主張の強い作品とは一線を画し、シクによる建築物には静かな感性が息づいている。
スイスは世界的に有名な建築家の出身国という顔も持ち、その作品は世界的に高い評価を受けている。しかし国内では、建築の基準はより繊細で静かなアプローチによって定義される。

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そのような視点を読み解く手がかりとなるのが、ミロスラフ・シクの作品と教育的な功績だ。
シクはこのスイスの建築精神に深く根ざした建築家だ。派手さよりもコンテクストを重視したデザイン・調和を重んじる感性は、メレット・オッペンハイム賞の歴代受賞者であるペーター・ツムトアやジオン・A・カミナダらに通じるものがある。
シクの建築事務所はチューリヒ中央駅から歩いてすぐ、物議を醸す複合商業施設「オイロパアレー・ショッピングセンター」と、政治色の濃い文化的施設である兵舎エリアという街の2つの対照的な顔の間にある。
今年1月にメレット・オッペンハイム賞を受賞したことを受け、この事務所でシクにインタビューした。進行中の作品の断片(設計図、資材見本、資料の山と縮尺模型)が散りばめられた会議室に通され、シクに受賞の感想を尋ねた。
「70歳になったら受賞できるんだよ」と冗談めいた答えの後に、シクは真剣な口調でこう続けた。「認知されることが重要だ。建築は時間のかかる芸術でね。1つのプロジェクトに5年、10年かかることもある。それに反応を得られるのはうれしい」

コンテクストかアイコンか
シクは旧チェコスロバキア出身で、1968年に政治難民としてスイスへ来た。連邦工科大学チューリヒ校(ETHZ)で学び、2018年に退職するまで教鞭を取った。
シクは1980年代に一世を風靡したモダニズム、ポストモダニズムを批判して注目を浴びた。師事していたイタリアの建築家アルド・ロッシ外部リンクに影響を受け、シクはアナログ建築というコンセプトを確立した。周囲の建築環境を利用して設計するという概念で、「すでに存在するものを類推しながら設計する」と言う。
シクのアプローチを理解するには、アイコン(象徴的)建築とコンテクスト(周囲の環境に考慮した)建築を区別することが重要だ。
アイコン建築とは、主張はするが周囲に溶け込まない建築を指す。「それらは確かに美と興奮を生むが、私のやり方ではない。ビルバオのグッゲンハイム美術館やハンブルクのエルプフィルハーモニーのような、どこにでもあるグローバルな建築だ」とシクは説明する。


シクはコンテクスト建築にこだわり続ける。アナログ建築とそこから発展した一連の概念は、建築および都市づくりのあらゆる段階で、周辺環境に向き合うための枠組みとなっている。
シクの「新旧の融合」という概念は、自身が初期に手がけた建築物に表れている。モルジュ(スイス西部)にある会議施設兼ホテルの「ラ・ロンジュレ」、チューリヒ州エックにある「聖アントニウス・ローマ・カトリック教会」、あるいはチューリヒの「音楽家向け住宅」などがその例だ。既存の建物と新たな建物を融合させ、日常的なものと歴史的なものを取り入れている。「コンテクストは常に変化する。だからその美しさは固定された様式にはおさまらない」とシクは言う。「どのプロジェクトもそれぞれ違う」

シクは2012年にベネチア・ビエンナーレのスイス館でキュレーターを務め、「今こそアンサンブル!」というテーマを掲げた。
「ここで言う『アンサンブル』とは、すでに存在しているもの、つまりファサードの幾何学的形状、スカイライン(空を背景とした輪郭)、既存の建物のシルエットに合わせる、という意味だ」とシクは説明する。「同じものを繰り返す必要はない。調和ではない。静けさを演出する必要はないが、声高な主張も必要ない」

リトル・ビッグ・シティ
インタビューは、シクの建築と思想の領域であるヨーロッパの都市の現状へと話題が移った。ETHZを退職して以来、シクはチューリヒの事務所と、プラハの美術アカデミーでの教職を行き来する2拠点生活を送る。
「誰もが都市集積(人口や企業の集中)について語るが、スイスにはそれがない」とシクは言う。「せいぜい郊外のことが話題に上がる程度だ。ロサンゼルスのような広大な大都市とは異なり、スイスの都市はとてもコンパクトにまとまっている。ロサンゼルスを車で1時間半走ったことがあるが、全く家並みが途切れなかった」
シクはスイスの都市を「リトル・ビッグ・シティ(小さくて大きい都市)」と呼ぶ。昔からある街の中心部を基盤に発展し、はっきりとした境目がありつつ自然とも密接に結びついたもの、という定義だという。「限界は技術主義的な計画ではなく、人々の暮らし方から導き出されるべきだ」
シクは、この都市モデルには3つの脅威があるという。第一の脅威は「大都市(ビッグ・シティ)」で、自制なしに拡大するグローバル化した都市計画によって形作られる。


その対極として、過剰な保存が引き起こす都市の麻痺をシクは「コレクト・シティ(正しい都市)」と呼ぶ。厳格な文化財保護法により、地域全体の時が止まったままになっている状態だ。「コレクト・シティはまるで博物館だ」とシクは言う。
3つ目の脅威は「ファン・シティ(楽しみの都市)」で、国際的な人の移動やツーリズムによって支えられ、旅行者やグローバル人材を魅了する目的でデザインされている都市だ。「ファン・シティにやって来るグローバル人材は20歳から39歳で、美しくスポーツ好きで、環境保護に意識が高くて…ウィーンやプラハ、ベネチアやチューリヒを行き来する」とシクは説明する。これらの都市は住民の営みではなく訪問者の消費によって形作られ、一過性の場所と化す。
「ベネチアやプラハ、クラクフ外部リンクのような都市は観光客で溢れ返っている。どこででも暮らしていける人たちだが、どこにも根は下ろさない。来ては、去る。そうして都市は商品化されていく」
シクはチューリヒの変貌をこう振り返る。「かつてのチューリヒは労働者階級の街で、私が1986年に移住した頃は鋼鉄を生産する工業都市だった。汚くてうるさくて、共産主義者と労働者階級の人がたくさんいた」。以来、街は変化し続けてきた。「今や、スイス人の平均的な収入では、組合住宅でもなければ市内に住むのは難しい」
チューリヒとプラハの間で
教職はシクにとって家族を養うための実利的な選択だった。「建築家は収入に浮き沈みがあり、常に不安定だ。初めてETHZで給与をもらった時、何かの間違いだと思って担当者に電話してしまった。相手は私が冗談を言っていると思っていたよ」
その職場にシクが30年以上も勤めた理由は、経済的な安定だけではなかった。「ETHでは毎年100人、30年でその30倍にもなる数の学生に教えることが出来た。退職まで続いたのは、その学生たちがいたからだ」。働く値打ちは学生たちにあった。「彼らは優秀だ。持つべきものをちゃんと備え、手先も器用だ。知らないことがあっても、一学期で身につける。知識を1つずつレンガのように積み上げていく」。シクは大学での変化も目の当たりにした。「教え始めた頃は女性が1人もいなかったが、退職する頃には学生の52%が女性だった」
しかしシクはそのETHZのキャンパスモデル、、もっと言えば大学を郊外へ移転させ、専攻ごとに学生を分けてしまう傾向を最も厳しく批判する。「キャンパスを孤立させる考え方は全くひどい。哲学も、文学も、心理学も別のキャンパスでやっている。建築の学び舎を郊外に作るなどありえない」と、シクは憤る。

一方、プラハ美術アカデミー(AVU)の建物は街の構成によく馴染んでいる。プラハで教える楽しさは地理的な理由もさることながら教育方法も関係しているという。「私がそこで試みているのは美術と建築だ」。つまり美術というレンズを通して建築を教える−−それはETHZでは考えられなかったとシクは話す。
変化と忍耐

シクが実際に携わる建築も、コンテクスト建築に深く根差している。
スイス北部の小さな村、メレンシュヴァントで最近完成させたプロジェクトは、村の中心部を生まれ変わらせた。幾何学的ではないボリューム感で、屋根の輪郭は元々ある建物の屋根の線に寄り添う形になっている。
地中海建築を思わせる白いファサードは、スイスの美意識における変化を示唆する。「伝統は、異化しなければ灰色で古いものになっていく」とシクは言う。シクが目指すのはちょっとした「異質さ」、つまり詩的なずれを加えること−−見慣れたものに新鮮さを与え、なおかつ現代にも通用するものにすることだ。
最近、シクは従来とは異なるリズムで過ごしている。「何もかも変化している」と言う。味覚も変わり、避けていた野菜も今では好んで食べる。力強さは持久力へ、自信は静かなる規律に変化した。
変わらないのは、全ての要素があるべき場所に収まるまで、そのプロセスに関わり続けるという、建築が自身に植え付けた考え方だ。シクは言う。「建築は長い月日を経て出来上がる人工物。唯一私に残った習慣は忍耐だ」

(敬称略)
編集 Virginie Mangin & Eduardo Simantob/gw、英語からの翻訳:神蔵久絵、校正:宇田薫

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