仏名優イザベル・ユペールが「しがないエキストラ」に ロカルノ映画祭を飾った異色のコメディ
フランスの名優イザベル・ユペールがしがないエキストラ役――今年の第79回ロカルノ国際映画祭で世界初上映された、マルク・フィトゥシ監督の最新作「Ni vue, ni connue」は、映画界を舞台に現実とフィクションの境界をユーモラスに描く。ユペールと共演のサンドリーヌ・キベルラン、フィトゥシ監督が、演技、自分を笑いのネタにするユーモア、そして作品のテーマについて語った。
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作品数の多さと多様さで知られるロカルノ映画祭は、カンヌやベネチアといった他の権威ある国際映画祭の選考では「冒険的すぎる」とみなされかねない、先鋭的な視点を持つ映画監督たちにスポットライトを当ててきた。
インディペンデント作品や実験的な作品のショーケースだからといって、映画祭のディレクターはシネフィル(映画通)だけを対象としているわけではない。ロカルノ映画祭を象徴する部門の1つは、昔も今も「ピアッツァ・グランデ」だ。ロカルノの中央広場に設けられた世界最大級のスクリーンの前には毎晩、約8000人の観客が集まる。ワールドプレミア作品やインターナショナルプレミア作品を中心に集め、著名なゲストが登壇する同部門は、より幅広い観客層をターゲットにしている。
今年の第79回ロカルノ映画祭は明るく楽しい雰囲気の中、マルク・フィトゥシ監督の最新作「Ni vue, ni connue(仮訳:見られず、知られず)」(2026年)の世界初上映で幕を閉じた。
同作は、仏映画界のスター、イザベル・ユペールとサンドリーヌ・キベルランを主演に迎え、映画界を舞台にしたコメディだ。フィトゥシ監督は、目立たないが撮影現場に欠かせないエキストラという職業をメタ視点のユーモアたっぷりに撮っている。
長編デビュー作「La vie d’artiste(仮訳:アーティストの人生)」(2006年)からテレビドラマ「Ça, c’est Paris!(仮訳:これがパリだ!)」(2024年)に至るまで、ショービジネスやエンターテインメントの世界は、監督の作品にとって不可欠な要素だ。だが、何よりもフィトゥシ監督の芸術世界を決定づけたのは、数々の賞を受賞したドラマシリーズ「エージェント物語」(2015~2020年)の第3・第4シーズンだ。
映画「Ni vue, ni connue」はこの独特な自分を笑いのネタにするユーモアの延長線上にあるようだ。フィトゥシが監督した「エージェント物語」のエピソードに、キベルランとユペールは本人役で出演し、すでにこの手法で笑いを誘っている。
「エージェント物語」、サンドリーヌ・キベルランがカメオ出演したエピソードの予告編はこちら。
フィクションが現実に向き合うとき
しかし、この映画はメタ的な仕掛けにひねりを加えている。サンドリーヌ・キベルラン、ダイアン・クルーガー、アナ・ジラルドといった俳優たちがカメオ出演する一方、イザベル・ユペールにはコリンヌ・マクルーという役が与えられている。マクルーは何としても自分の才能を認めてもらおうとする、存在感の強いエキストラ俳優で、自分の才能を証明できる役を必死に探している。
撮影現場で出会ったふたりは交流を深め、性格の違いや、仕事、経済力、社会的な立場の違いから生まれる緊張とユーモアに満ちた友情を結ぶ。
今のフランス映画界でおそらく最も出演作の多い俳優であり、クロード・シャブロル、ミヒャエル・ハネケ、ポール・バーホーベンといった名監督の下で数々の忘れがたい演技を披露してきた名優ユペールが、しがないエキストラとして撮影現場の先々で四苦八苦する姿には驚くが、面白い。
フィクションが作り出す幻想は、長くは続かない。映画の公開前夜、ホテル・ベルヴェデーレで会ったユペールはどこか遠くを見るような、ほとんど無関心とも言える表情だった。そこから、何事にも必死で取り組む、不器用だがどこか愛嬌のあるコリンヌという役を演じるユペールの卓越した演技力がうかがえた。フィトゥシ監督と、ユペールと同じくプロフェッショナルだが、もう少し親しみのあるキベルランに挟まれたユペールはその時、私たちの質問に答えることそっちのけで、他のことを考えているように見えた。
現実とフィクションの乖離(かいり)は、たしかにこの映画の主要テーマの1つだ。映画が作られる現場や制作の実情を描いた多くの映画――最も有名なのはおそらくフランソワ・トリュフォーの「映画に愛をこめて アメリカの夜」(仏、1973年)だろう――と同様、「Ni vue, ni connue」は映画の世界が持つ現実逃避的な魅力を深く掘り下げている。
フィトゥシ監督によれば、映画を作りたいという欲求は、それ自体が現実の中にいたいという願望を伴っている。映画だから可能な客観性をもって、自分たちが見たいと望む「改良された現実」だという。一方、ユペールは、役者の現実と観客の現実には違いがあると強調する。「役者でいるときは、まさに映画制作の真っただ中にいて、むしろ現実の中心にいる」。短い言葉ながら、そこにはユペールの自身の仕事に対する強い確信がうかがえる。
上手く自分を笑いのネタにする
ユペールは、マクルーの役作りを比較的自由に任されていた一方、キベルランをはじめ他の俳優たちにとって役作りはより難しかったようだ。本作には明らかに自分を笑いのネタにしている場面があるとはいえ、彼らの役柄は、本人を大げさに描いた現実とはかけ離れた人物と受け取られかねないのではないか――。
だが、フィトゥシ監督はこう話す。「今日、観客は俳優たちの自虐的なアプローチには慣れており、俳優たちも自身のイメージを巧みに操れる。ヴァンサン・ドゥディエンヌのような俳優は、本人役でクレジットされながらも、これほど報われない役を引き受ける覚悟がある」。さらに「それは知性の表れでもある。結果的に、俳優たちは私たちにより身近で、親しみやすいとさえ言える存在になっていると思う」と付け加えた。
キベルランの演技を高く評価するユペールは、ふたりの演技には通じるものがあると感じたと話す。「私たちを共演させたのは良いアイデアだった。私たちの演技は、たとえ非常に悲劇的な映画やメロドラマのような映画であっても、自分を笑いのネタにしているところがあると思う。私は女優にそういう一面があるのを見るのが好きだ。ご存知の通り、コメディはシリアスなドラマから決して遠く離れることはなく、シリアスなドラマもコメディから遠く離れることはないとよく言われる。この考えを演技に取り入れれば、どちらか一方のジャンルに完全に当てはまることはない。そうすることで、観客にも作品を自由に受け取る余地が生まれる」
映画のユーモラスな調子について、キベルランは、フィトゥシ監督の作品作りとそれぞれの役柄に合わせてユーモアを使い分ける能力を評価する。「私たちのユーモアが誰にでも通じるわけでないことはかなり早い段階で分かっていた。マルク(フィトゥシ監督)がどのようなユーモアで作品を作っているかを私たちは知っていたので、細心の注意を払った。それでも時折、人によっては私たちと同じような距離感を持てないことに気づくことがあった。マルクは、その加減を見事につかんでいた」
笑いでクリシェ(お決まりのイメージ)の裏をかく
この映画の本質は、架空ではあるが、映画界への没入体験だけではない。監督と主演俳優たちは、この映画は何よりもまず「出会い」の物語であり、その影響は映画に携わる職業にとどまらないと強調する。
フィトゥシ監督は映画のヒロインたちについて、「私たちは、女性同士の対立という落とし穴にははまりたくなかった。女優同士が争うというのは、映画界に根強く残るお決まりのイメージだ。しかし、コリンヌはサンドリーヌの座を奪おうとはしていないし、サンドリーヌも、ダイアン・クルーガーが役を勝ち取ったと知って悲しんでも、復讐を叫ぶようなことはない」と説明する。
この映画は、社会的な環境や立場によって人生が左右されてしまう現実と、それが登場人物たちの意志とは無関係に及ぼしうる影響を描き、問題を指摘している。「でも、それで笑わせる!」とユペールは言う。「マルクの映画で私が好きなのは、どこか不安定で、社会的に低い立場に置かれた登場人物を描いているにもかかわらず、被害者と成功者を単純に対比させるわけではないところだ。私が演じるコリンヌについてとても興味深いのは、彼女が決して被害者として描かれていない点だ。コリンヌは映画の冒頭から絶え間なく続くリアクションを通して、社会の不平等を繰り返し訴えている。これは純粋に演出上の仕掛けでもあるが、笑いを誘うとともに激しい反応を引き起こす」
編集:Samuel Jaberg、仏語からの翻訳:江藤真理、校正:宇田薫
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