スイスは一度でも「中立」だったのか?
9月27日の国民投票で是非が問われる「中立イニシアチブ(国民発議)」は、スイスは伝統的な中立に立ち戻るべきだと訴える。しかし、伝統的な中立とは何かという点で歴史家の意見は分かれる。
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スイスは中立だ。ほとんどの人は学校でそう教わっただろう。だが「中立である」とは厳密にはどんな状態なのか。
「中立イニシアチブ」は正式名称を「スイスの中立の維持」といい、より厳密でより拘束力のある中立の定義を連邦憲法に盛り込むことを目指す。
具体的には経済制裁を原則禁止する。スイスが参加できるのは国連安全保障理事会で採択された制裁措置に限られる。
軍事・防衛同盟への参加も禁じる。こうした同盟との協力は、スイスが直接攻撃された場合、あるいは差し迫った攻撃を防御する場合に限られる。
イニシアチブは主権主義団体「プロ・スイス」と右派・国民党(SVP/UDC)の主要メンバーらが立ち上げ、2024年夏に成立した。連邦政府と連邦議会は、有権者に否決を推奨している。
中立イニシアチブの解説記事はこちら。
保守右派・国民党(SVP/UDC)勢力を中心としたイニシアチブ発起委員会は「伝統的中立への回帰」を唱える。
だが、そもそも伝統的なスイスの中立というものは存在するのか。もしくは中立の解釈は歴史の流れの中で変遷してきたのか。スイス中立の歴史をひも解いた。
ウィーン会議まで(1291〜1815年)
1848年に現スイス連邦が成立するはるか前、既に原初同盟(盟約者団)も紛争を回避しようと努めていた。
ただし、スイス外交文書研究所(Dodis)のサーシャ・ツァーラ所長によると、当時はまだ「中立」という言葉は使われていなかった。
その代わりに使われたのが「Stillsitzen(じっと動かず座っている、の意)」という言葉だ。「Stillsitzen」は現代的な理解での中立とはまだ隔たりがあったが、その姿勢は慎重な外交へ、そしてスイス中立政策へと発展した。
ただし、この「Stillsitzen」は、もうかるビジネスモデルと対になっていた。原初同盟は戦争こそ往々にして回避したが、それと同時に傭兵制度を使って利益を上げてもいた。長年にわたり何千人ものスイス人が、傭兵として様々な外国の支配者の下で戦った。
ツァーラ氏にとってこれは、既に当時の「Stillsitzen」、つまり慎重姿勢が、現実的・経済的な勘案に沿っていたことを示す。紛争の非当事者ならばどの交戦国にも傭兵を売って稼げたからだ。
ウィーン会議とその影響(1815〜1918年)
ナポレオン失脚後、欧州の秩序再建を話し合うために開かれたウィーン会議(1815年)で、スイスの「永世中立」が国際法上初めて認められた。
ツァーラ氏によれば、これは第一義的には欧州列強による1つのプロジェクトだった。パワーポリティクスの観点から、フランスとオーストリアの間に安定した緩衝国が必要とされた。
中立イニシアチブの共著者である歴史家ルネ・ロカ氏は、こうした見方に異を唱える。スイスは1815年以前から中立を自認し、ウィーン会議はそれを国際的に追認したに過ぎないという意見だ。
だが、1815年以降もスイスは、あらゆる紛争で不関与を貫いたわけではない。1856年のヌーシャテル事件では、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を相手に、交戦には至らなかったものの軍の動員に踏み切った。
ツァーラ氏にとってこの件は、硬直的な中立の概念に対する有力な反証例だ。当時新興国だったスイスは自国の利益を毅然と主張したとし「中立が外交上の影響力を行使しないという意味であったことは、一度もない」と説く。
スイスの中立は、1863年の赤十字国際委員会創設と翌年の第1回ジュネーブ条約の締結を受け、新たな段階に進んだ。
スイスは国際人道法の中心地として、また仲介者として頭角を現した。ロカ氏によれば、この時期に進んだ中立と仲介外交、人道的取組みの一体化は、今日も有効性を失っていない。
国家的アイデンティティーとしての中立(1918〜1990年)
第一次世界大戦はスイスに内政的あつれきを生んだ。ドイツ語圏ではドイツ・オーストリア・ハンガリーに、フランス語圏ではフランスに同調する意見が主流となった。
ツァーラ氏は、この状況こそが中立が国の理念として確立する契機だったとする。中立は、言語的・文化的に分断されたスイスに共通の基盤を与えた。「スイス国民はパリにもベルリンにも忖度(そんたく)しない。そんなメッセージが発せられた」。中立は国内結束のシンボルとなった。
今日、中立をめぐる議論で最も賛否を分けるテーマが制裁だ。1920年に国際連盟に加盟した際スイスは、侵略者に対し経済制裁を発動する可能性を受け入れた一方で、軍事的措置は放棄した。
ツァーラ氏は、このいわゆる「部分的中立」を、スイスが中立を常に柔軟に解釈してきた証と捉える。ロカ氏は逆に、本来中立に託された理念が徐々に希薄化するプロセスの始まりをみる。
東西冷戦において中立は事実上スイスのトレードマークとなり、ジュネーブは国際交渉の重要な舞台に成長した。
ロカ氏は、とりわけ1970年代に東西陣営間で行われた一連の欧州安全保障協力会議(CSCE)などの外交会議において、中立性に信頼のおける国が仲介役を果たせることが示されたと話す。
これに対しツァーラ氏は、当時の国際情勢がスイスがこうした役割を果たすには好都合だったこと、その役割はさまざまな点でスイスの国益にかなっていたことを指摘する。
冷戦終結から現在まで(1990〜2026年)
現在進行中の中立論議は、ロシアのウクライナ侵攻で欧州連合(EU)が発動した対ロ経済制裁をスイスが踏襲したことと結びつけられることが多い。だが、ツァーラ氏は、事実上の転換は既に1990年に始まっていたと話す。
冷戦終結の翌年に当たるその年、スイスは国連のイラク経済制裁に初めて参加し、国際平和活動への協力姿勢を強め始めた。中立は、紛争への絶対的非介入の表明というよりも、むしろ国際協力のツールと捉えられるようになった。ロカ氏も、今修正されるべき路線はその頃に打ち出されたと考える。
中立イニシアチブの核心はまさにこの点にある。ロカ氏始めイニシアチブ発起人らが要求するのは「完全な中立」への回帰であり、それは経済制裁を行わないこと、軍事同盟に参加しないこと、そして積極的に仲介役を果たすことだ。
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スイスの中立はどこへ向かうのか?
ツァーラ氏にとってこうした定義は硬直的で踏み込み過ぎている。同氏は、憲法にこのような規定を盛り込むことはスイスの自由裁量の余地を不必要に制限することになるとし「歴史を振り返れば、スイスの中立は、政治的現実に即して運用した時最も成功をおさめたことは明らかだ」と指摘する。
大半の歴史家は、中立が過去から現在に至るまでスイスの核を成すコンセプトだという考えに同意するだろう。だが、ここから未来に向け何を読み取るかという点では意見が大きく分かれる。
ロカ氏はあらためて明文化されるべき歴史的な価値だと強調する。ツァーラ氏はスイスの中立は絶えず調整される政治的ツールであり、柔軟であり続けるべきだと主張する。
つまり国民投票で焦点となるのは中立の今後だけではない。中立の歴史を「不変の伝統」とみるのか「不断の調整」とみるのか。その点も問われている。
独語からの翻訳:フュレマン直美、校正:宇田薫
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