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19世紀ブラジルの移民労働者搾取を世に知らしめたスイス人

170年前、トーマス・ダヴァッツはよりよい生活を求めスイスからブラジルへ移住した パウリスタ博物館
170年前、トーマス・ダヴァッツはよりよい生活を求めスイスからブラジルへ移住した パウリスタ博物館 Museu Paulista

約170年前、1人のスイス人がブラジルで反乱を主導し、19世紀のラテンアメリカにおける欧州移民の搾取の実態を明らかにした。ダヴァッツが焦点を当てた国外への出稼ぎ、強制労働、国家の責任などの闇は、現代の議論でも依然として核となる問題だ。

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トーマス・ダヴァッツは170年前、よりよい生活を求めてスイスからブラジルへ移住した。世界有数のコーヒー生産国であるブラジルは当時、アフリカ出身の奴隷の労働力に依存しており、そのビジネスモデルを問題視するイギリスから圧力を受けていた。1845年、イギリスでアバディーン法が可決され、ブラジル国旗を掲げる奴隷船に対するイギリス海軍の捜査権が認められた。こうした圧力を受けたブラジルは1850年、大西洋奴隷貿易を法律で禁じた。

こうした状況を背景に、ブラジルはプランテーションの労働力減少を補うため、欧州人を誘致する取り組みを始めた。ブラジルの地主層は、欧州移民を誘致すれば文明国家のイメージ作りになり、同時に、アフリカからの黒人奴隷が大部分を占めていた人口構成の白人比率を増やせると考えた。

ダヴァッツはスイス南東部、アルプス山脈の中にあるグラウビュンデン州、プレッティガウ農村部の学校で教師として働く、人望の厚い人物だった。ダヴァッツは改革派のスイスおよび欧州他地域で19世紀に広まったプロテスタント運動の一環であるインナー・ミッション(内国伝道)による厳格な宗教教育を受けていた。

グラウビュンデン州プレッティガウで教師をしていたトーマス・ダヴァッツ。写真はダヴァッツが育った家
グラウビュンデン州プレッティガウで教師をしていたトーマス・ダヴァッツ。写真はダヴァッツが育った家 ETH-Bibliothek Zürich

ダヴァッツは影響力を持つ人物として、スイス人労働者の一団を率いる形でブラジルへ渡った。彼らはブラジルの地主層とスイス人労働者の仲介役を担うブラジル企業と契約を結んでいた。

「ブラジルを文明国家にするためには、欧州人の誘致は必須と考えられていた。19世紀にはチャールズ・ダーウィンの進化論が大きな影響力を持っており、その誤った解釈に基づく白人化論や文明化論が盛んに提唱された」と政治アナリストでマッケンジー長老派大学歴史学教授のヴィクトル・ミッシアート氏は指摘する。

こうしてブラジル政府は移民促進のため、土地の無償貸与、ブラジル移住を欧州で斡旋するリクルーターの雇用、労働者誘致を目的としたプロパガンダの拡散などの政策を講じた。1848年、スイスやドイツ諸州からドイツ語を話す移民家族がブラジルに初めて到着した。ダヴァッツが属する一団は1855年7月にブラジルの地を踏んだ。

「ブラジルに渡った欧州の農民はある意味、工業化に抵抗していた。欧州全域で発生した飢饉を受けて都市部へ移住した多くの移民と異なり、彼らは農業での解決に賭けた。たとえ小さな土地でも、地主になることを期待して移住した。しかしその期待は、ブラジルの大地主層が率いる計画によって打ち砕かれた」と歴史学博士号を持つカンピーナス大学(ブラジル)のアルベルト・ルイス・シュナイダー氏は説明する。

プレッティガウからリメイラへ

ダヴァッツは自身の回想録「The Treatment of Colonists in the Province of São Paulo in Brazil(仮訳:ブラジル・サンパウロにおける入植者の待遇/原題:Die Behandlung der Kolonisten in der Provinz St. Paulo in Brasilien)」に「1854年8月、私の心はブラジルに向いた」と書きとめた。

「講演、書簡、印刷物など、さまざまな手段を通して提示される多数の記述が示唆するように、私の理想はブラジルで実現するだろう。そう期待した私は、貧民救助委員会の一員として、ブラジルへの渡航を希望する市民が費用を工面できない場合には、渡航に必要な資金を提供するようプレッティガウの自治体に求めることを決めた」

こうして指導的立場にいることはダヴァッツ本人のメリットにもなった。ブラジル到着後、ダヴァッツはサンパウロ州内陸部の町、リメイラにあるイビカバ農場で管理職として働いた。「Brazil Through the Eyes of Thomas Davatz(仮訳:トーマス・ダヴァッツが見たブラジル/原題:O Brasil Pelo Olhar de Thomaz Davatz)」の共著者イルカ・スターン・コーエン氏によると、ダヴァッツは入植地での生活・労働状況をスイスへ報告する官命も受けていた。当時のスイスは依然として貧しい農村地帯が多く、スイス政府が国民の生活水準向上を目的に、社会福祉政策の一環として移民政策推進を計画していたためだ。

移民の蜂起

ダヴァッツは1年半、農場で入植者の子どもたちの教師として働いた後、いわゆる「パートナーシップ制度」におけるさまざまな問題について、農場側に交渉を要求した。このパートナーシップ制度」は奴隷制に代わる段階的代替制度として19世紀ブラジルのコーヒー農園を中心に採用され、移民に耕作地を与える見返りに収穫物を地主と共有することを定めていた。自由な協同労働という触れ込みだった。

トーマス・ダヴァッツ
トーマス・ダヴァッツ Wikimedia

しかしこの制度の実態は、入植者たちを借金漬けにするものだった。入植者は地主から商品やサービスを購入することを強制され、入植者の口座は地主が一方的に管理していた。その結果、負債を抱えたスイス人労働者は流動性や自主性を制限された。表向きは自由労働だが、実態としては強制・搾取を特徴とする、奴隷制と酷似した労働形態だった。

カンピーナス大のシュナイダー氏は「ブラジルの地主層は長年、奴隷制度を享受していた。自由労働者と交渉する文化はなく、それこそが当時起きていた数々の問題の主要因だった」と指摘する。

北西スイス応用科学大学(FHNW)のベアトリス・ツィーグラー教授(歴史学)によると、ダヴァッツは入植者の入出金の体系的な監視と帳簿の監査に着手した。教師であり、読み書きの能力を有するダヴァッツは自然とスイス人入植者のリーダーとなった。

「こうして分析した結果、食品価格のつり上げ、コーヒー納入時の計量不正、代金の不払い等、入植者に対するさまざまな不正が横行していることをダヴァッツは突き止めた。そしてこの証拠を根拠に、入植者たちが奴隷に代わる存在として組織的に欺かれていると判断した」(ツィーグラー教授)

地主側、入植者側のどちらにも暴力が蔓延していたことを示す記録はないが、双方は真っ向から対立した。それまで奴隷労働力に依存してきた農園主は自由労働者のあらゆる要望をはねつけた。リーダーであるダヴァッツが逮捕される、または奴隷が受けていたような暴行を受けるかもしれないと恐れた入植者たちは、1856年、ダヴァッツに率いられ農園本部で武装蜂起した。

この反乱でアフリカ出身の奴隷が感化されることを恐れた農園主や現地の政治家は、ダヴァッツを「外国のスパイであり、スイスとブラジルの外交関係を損なった」と非難し、ダヴァッツに対する厳しい措置を要求した。

マッケンジー長老派大のミッシアート教授によると、スイス人入植者はコーヒー農園でアフリカ出身の奴隷と共存し、日々の仕事を共有していたが、奴隷制を中心に構築された制度ではスイス人入植者と奴隷の立場は法的に異なり、スイス人入植者は奴隷よりも階層的に上位の立場にあった。

1850年に大西洋奴隷貿易が法律で禁じられても、奴隷制自体はブラジルでは合法だったため、奴隷労働が広く利用され続けた。1888年にブラジルで奴隷制が廃止されるまでの間にも違法な人身取引や国内の奴隷交換が根強く続いた。

同年、ダヴァッツは他のスイス人入植者の保護のもと農園を離れ、当時、ブラジルから外国へ出港する際の主要港だったサントス港へ向かった。同胞からの非公式の支援を受けたダヴァッツはサントス港から欧州へ帰還した。ブラジル当局の監視下ではあったが、逮捕や国外退去処分は免れた。

スイスへの帰国と後世に影響を与えた告発

スイスに戻ったダヴァッツは、スイス人のブラジル入植を止めるため、ブラジルのコーヒー農園で欧州移民が構造的に搾取されている実態を告発する詳細な記録を回想録として出版した。ダヴァッツの経験に世界から反響を集めたのはブラジルで行われた司法処罰ではなく、ダヴァッツ自身が記したこの回想録だった。

「Brazil Through the Eyes of Thomas Davatz」の共著者であるコーエン氏は「彼の回想録は、外国人が上辺の美しいところだけを書いたブラジル旅行記とは一線を画していた。圧制、権力の乱用、虐げられた者たちの反応など、スイス国内の読者層にとってほぼ初耳の、間違いなく不快でデリケートな話題に切り込んでいた」と述べる。

ダヴァッツの回想録はスイスの隣国、ドイツでも長期間影響力があった
ダヴァッツの回想録はスイスの隣国、ドイツでも長期間影響力があった Wikimedia

影響は直ちに現れた。FHNWのツィーグラー教授は「影響はグラウビュンデン州から広まった。移民を促進しようと考えていたグラウビュンデン州政府はダヴァッツからの報告を待っていた。しかし報告書を見て、移民推進構想の断念を余儀なくされただけでなく、移民の家族、報道機関、政界からの抗議を恐れた。しかも、多くの自治体は財政難にもかかわらず移民の渡航費用を立て替えていたため、踏み倒しも懸念された」と述べる。

ダヴァッツの回想録は他のドイツ語圏地域にも影響を及ぼした。テオドール・ホイザー、ジャン・ジャック・チューディなど他の移民からの報告もあり、武装蜂起から間もなく、プロイセン王国ではドイツ語圏住民のブラジルへの移住反対運動が巻き起こった。1859年、プロイセン王国ではブラジル移住が正式に禁止された。

ツィーグラー教授によると、スイスでは国民の国外移住は州の管轄だったが、一部の州移民局はすぐに管理体制を強化した。1888年、国外移住手続きをより明確に規制する連邦法が施行され、国が在外スイス人保護の直接責任を負うという考え方が強化された。

ブラジルでは、当時の負の遺産が今なお存在する。2024年、ブラジル労働雇用省は奴隷同然の労働環境にあった2004人の労働者を救出したと報告し、同国に搾取的な労使関係が根強く残っていることを浮き彫りにした。

1908年、日本人781人を乗せた移民船「笠戸丸」がブラジル南東部サントス港に到着し、日本からブラジルへの本格的な移民が始まった。日本では当時、農村の人口増加や貧困が深刻化しており、多くの人々が新天地を求めた。移民の多くはサンパウロ州のコーヒー農園で契約労働者として働き、厳しい労働条件に直面しながらも、やがて農業や商業など多様な分野に進出し、地域社会に根を下ろしていった。その後も移住は続き、ブラジルには現在、約200万人ともいわれる世界最大の日系コミュニティが形成されている。

しかし、過去には移民をめぐる摩擦もあった。1930年代には移民制限政策が導入され、日本人移民の新たな流入は抑えられるようになった。さらに太平洋戦争開戦でブラジルが連合国側として日本を敵国とみなすと、日系人社会に対する監視や統制が一層強まり、日本語新聞や日本語教育などが厳しく制限された。また1943年には港湾都市サントスから日系人6500人が強制的に退去させられるなどの措置が取られた(サントス事件)。

しかしブラジル人権省の恩赦委員会は2024年、第二次世界大戦期のサントス事件と、戦後の動乱に伴うアンシエッタ島での日系移民の収監について誤りだったと認め、国として初めて公式に謝罪した。

この記事は、原語の記事を日本語読者向けに特別に編集・加筆した記事です。このため原語の記事とは内容が異なる場合があります。日本語読者向けに編集部が特別に編集した記事の特集ページははこちらです。

Edited by Virginie Mangin/ts英語からの翻訳:鈴木寿枝、校正・追記:宇田薫

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