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静寂のオアシスに押し寄せる「愛の不時着」ファン

イゼルトヴァルトの桟橋で写真撮影をするアジア人観光客
イゼルトヴァルトの桟橋で写真撮影に列をなすロケ地巡りの観光客 Keystone / Peter Klaunzer

アジア諸国を中心に一大ブームとなった韓国ドラマ「愛の不時着」のファンが、スイスのロケ地に押し寄せている。コロナ禍が落ち着いた今年に入り、国外からの観光客が大幅に増加した。ただ静けさを売りに観光客を魅了してきたイゼルトヴァルトでは、思いがけないブームに戸惑いの声も上がっている。 

スイス各地で新学期が始まった8月下旬の月曜日。朝9時06分にインターラーケン東駅から出発した103番のポストバスが終点のイゼルトヴァルト・ドルフプラッツに到着すると、乗っていたアジア人観光客は200メートルほど先にあるブリエンツ湖畔に向かってまっしぐらに歩き出した。目指す場所はただ1つ。韓国で放送された恋愛ドラマ「愛の不時着」の名シーンが生まれた桟橋だ。 

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幅1.5メートル、長さ7メートル程の桟橋周辺には、既に10人程度の観光客が写真撮影の順番待ちをしていた。1組当たりの撮影時間は10分以上を要することも少なくない。三脚や自撮り棒、果てはドローンを飛ばし、時にカメラに顔を寄せて撮れ具合を確認しながら、何度も写真を撮り直す。次のバスが到着すると列がまた伸び、途切れることはない。 

同ドラマは、パラグライダーで韓国から北朝鮮に不時着した財閥令嬢が、北朝鮮の軍人と恋に落ちるラブストーリー。韓国では2019年12月に放送が始まり、高い視聴率を記録した。韓国と北朝鮮の男女が愛し合うという、これまでにはなかった設定もドラマの人気を後押しし、韓国をはじめ日本やベトナム、中国などアジア諸国を中心に一大ブームとなった。現在では米動画配信大手ネットフリックスが世界190カ国を対象に9カ国語で配信している。 

スイスではチューリヒ、ルツェルン、ベルン州イゼルトヴァルトが同ドラマのロケ地となった。主役の一人であるリ・ジョンヒョクがイゼルトヴァルトにあるブリエンツ湖畔の桟橋でピアノを演奏するシーンは特に有名で、同ドラマのファンのロケ地巡りに外せないスポットとなっている。 

インターラーケン東駅から記者と同じポストバスに乗って来た韓国出身のリーさんとパークさんも、さっそく桟橋の人混みに加わった。ドイツで夏の1カ月間、サマースクールに通う2人は「愛の不時着」のロケ地巡りを目的にスイスに来た。イゼルトヴァルトとルツェルンを訪問し、チューリヒを経由してドイツに戻るという。パークさんは「スイスの大自然はとても魅力的。韓国には無い」と話す。 

ポストバス103番の前でポーズをとる韓国人旅行者
韓国から来たパークさんとリーさん。リーさんはバスを降りると、前髪に巻いていたカーラーを外し、2人は真っ直ぐに桟橋へと向かった swissinfo.ch / Helen James

その隣で写真を撮っていたのは、ウェディングドレスとタキシード姿のベトナム人カップルだ。新婦のトゥー・グエンさんは「11月に結婚するのでその前撮りに来た。ここを選んだのはドラマの影響。すごくロマンチック」と目を輝かせる。ただ、そう話しながらも荷物をまとめる手の動きが止むことはない。「イゼルトヴァルトは今日だけ。今から移動しないと電車に間に合わない」と言うと、新郎の手を取って急ぎ足で桟橋を後にした。 

記念撮影をする新婦と新郎
結婚の記念撮影にイゼルトヴァルトを訪れたベトナム人カップル swissinfo.ch / Helen James
記念撮影をする観光客
桟橋の近くで思い思いに写真撮影をする観光客 swissinfo.ch / Helen James

イゼルトヴァルトのロケ地を訪れる観光客は昼にかけて更に増えた。インターラーケン東駅行きのバスはイゼルトヴァルトを発つ時点で既に満席で、終点に着く頃にはすし詰め状態だった。 

バスに乗る観光客
バスに乗り込む観光客。インターラーケン東駅に着くころには、バスは満員になった。イゼルトヴァルトで生まれ育ったマリオン・クレーヘンビュールさんは「東駅から村に帰ろうと思っても、バスに乗れない時さえあった」と話す swissinfo.ch / Helen James

同区間のポストバス利用者は今年に入って30%増加した。運営会社ポストバスは先月22日、ドラマのロケ地巡りをする観光客からの需要増加を理由に、1日当たり4本の増便を発表外部リンク。同区間では初の増便となった。また、今月には増便期間を更に10月まで延長すると決定した。 

ポストバス広報のウルス・ブロッハさんは「多くの人に利用され、大変うれしく思う。ただ、先週から工事と交通量の増加が重なり、同路線内で起こる渋滞が増えた。そのため、運行時間をどう守るかが課題となっている」と話す。スイス紙の報道によると8月前半のピーク時には1日最大12台の大型観光バスが到着したが、今は大半が個人客だ。 

コロナで延期

同ドラマが放送されたのは2019年12月と、少し前だ。ドラマ人気の盛り上がりと同時に、スイスのロケ地を訪れたいと思う視聴者は増加したが、新型コロナウイルス感染症のパンデミックによる世界的な海外渡航規制がスイス訪問の足かせとなった。しかし今年4月、スイスが全世界からの入国規制を全面的に撤廃したことで、国外からの観光客が再び増加した。 

連邦統計局(FSO)が5日発表した統計によると、今年の入国規制撤廃に伴い、外国人観光客(インバウンド)は220万人から690万人に急増した。インバウンドの7割は欧州からの観光客だが、アジアからも72万7千人泊増え前年同期の10.2倍に達した。地域別にみると、インバウンドは全13地域で需要が伸び、特にベルン地域が前年比4.6倍の増加を記録している。 

ブリエンツ湖で記念撮影をするベトナム人カップル
ベトナムから来たクスマ・センジャヤさんも、コロナで延期を余儀なくされた観光客の1人。「スイス訪問はコロナ前から予定していた。ようやく規制が解除されたので妻を連れてきた」と話す swissinfo.ch / Helen James

「ごみツーリズム」 

ただ愛の不時着ブームは地元の観光業者や住民に必ずしも歓迎されてはいないようだ。地域にお金を落とさずごみだけが増え、そして静けさを売りにしてきたイゼルトヴァルトの常連客の足が遠のくことへの不安が広がっている。 

バス停の向かいにある小売店maxiで働くマリオン・クレーヘンビュールさんは、「イゼルトヴァルトは人口420人の静かな村。観光客が波となって押し寄せてくるのは、地元住民にとっては決して喜ばしいことばかりではない」と話す。 

裏手に広がるブリエンツ湖
桟橋の横にあるストランドホテルの裏手に広がる眺め。ここでは時間の流れはゆっくりだ swissinfo.ch / Helen James

イゼルトヴァルトで生まれ育ったクレーヘンビュールさんはドラマのロケ地となる前からの変貌に戸惑いを隠せない。「ロケ地巡りでここに来る観光客は、桟橋で写真を撮ったら5分も経たずに村を出てしまう。観光バスで来る観光客は飲食類を持参してくるためレストランも利用しない。そのため村の観光収入はほぼゼロで、観光客が去った後に残るのは捨てられたごみだけ。これではただの『ごみツーリズム』だ」 

イゼルトヴァルト・ベーニゲン観光局もそれを認めている。「ドラマの影響による村の観光収入は特別増えておらず、ごみを処理するお金だけがかかっている。今、自治体と協議し、解決策を探っているところだ」 

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担当: Veronica DeVore

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村にある宿泊施設(ホテル6軒、キャンプ場2カ所)やレストランの収入がドラマの影響で増えたことはないという。「観光収入をもたらしてくれるのは、ロケ地巡り以外の旅行者だ」 

「イゼルトヴァルトの魅力は写真以上のもの。昔から『静寂のオアシス』とも呼ばれているように、20年来、平和と静けさを求めてイゼルトヴァルトを訪れている常連客もいる。それは村の住民にとっても同じ。この魅力を失くさないようにしたい」 

ブリエンツ湖畔にあるイゼルトヴァルト
ドラマのオープニングシーンのロケーションの1つとなった場所。イゼルトヴァルトはブリエンツ湖の左岸にある唯一の村で「ブリエンツ湖の真珠」との異名を持つ swissinfo.ch / Helen James

一方で、ドラマをきっかけにイゼルトヴァルトが広く知られるようになったことを喜ぶ声も無視できないと話す。イゼルトヴァルトで暮らすスイス人夫婦は、村を訪れる観光客の増加は「喜ばしいこと」だと率直に語る。「ここに住んでいるので、桟橋周辺は少なくとも100回は散歩している。ドラマの放送前と比べると観光客の数は圧倒的。でもブームが去ればまた静かになるし、これで我々が税金を余分に払うわけでもないから特に気にならない」 

イゼルトヴァルト自治体によると、タイのドラマ撮影隊は2022年5月末、インターラーケン当局にブリエンツ湖のほか、イゼルトヴァルトで撮影許可を申請した。 

増加する観光客のニーズと観光地の地域住民の生活環境をどう調和させるか。同自治体は次の村議会でオーバーツーリズム(観光公害)を巡る問題について審議する。 

編集:Virginie Mangin

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SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

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