アルツハイマー新薬、スイス承認はなぜ1つだけか
スイスでもようやく、待望のアルツハイマー病の新薬が承認された。だが期待された2種類のうち1つだけで、もう一方は申請が取り下げられた。一体何が起こったのか?
スイスの医薬品承認機関スイスメディック(Swissmedic)は今年1月22日、米イーライ・リリーの早期アルツハイマー病治療薬ドナネマブ(商品名:ケサンラ)を承認した。だが同じく承認が待望されていたもう1つの新薬レカネマブ(商品名:レケンビ。日本のエーザイと米国のバイオジェンが開発)は1月29日に承認申請が取り下げられた。
これら2種類の新薬はアルツハイマー病の記憶機能低下の症状と推定原因の両方に作用する初めての治療薬だ。レカネマブは2023年7月、ドナネマブは2024年7月に米国食品医薬品局(FDA)が承認した。レカネマブはこれまでに50カ国以上で承認外部リンクされており、生産拠点の1つはスイス北西部にある。
インゼル病院(ベルン大学病院)メモリークリニックのボドガン・ドラガンスキー所長(臨床神経科学)は「ドナネマブの承認は朗報だ。少なくとも米国承認薬の1つがスイスに入ってくる」と歓迎しつつも「もちろん2つとも承認されるのがベストだった。選択肢は多い方が良い」と話す。
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アルツハイマー新薬、スイスは承認するか?
レカネマブの承認申請取り下げについて、エーザイの広報担当者はスイスインフォに対し「スイスメディックの承認条件は限定的で、他の欧州諸国よりも投与できる患者対象が大幅に狭まることが予想された。慎重に議論した結果、この条件では申請撤回が現実的な唯一の選択肢との結論に至った」と回答した。
レカネマブとドナネマブは20年ぶりの画期的なアルツハイマー治療薬として注目されているが、リスクと利益の適正な評価が難しく、これまでも各国の規制当局を悩ませてきた。今回のスイスの結果は、その困難さを改めて浮き彫りにしている。
世界のアルツハイマー病患者の数は現在約3200万人外部リンクで、高齢化率の上昇により2050年までに3倍に増加すると予想されている。スイスの認知症患者は推定約16万1千人外部リンクで、このうちアルツハイマー型認知症が最も多く6〜7割を占める。関係者の期待が高まる中、スイスでは2年以上に渡り、早期アルツハイマー病治療薬レカネマブとドナネマブの承認審査が続けられてきた。
利益とリスク
レカネマブが承認申請の取り下げに至った主な理由は、特定の患者集団が受ける利益とリスクについての見解がエーザイとスイスメディックの間で分かれたからとみられる。医薬品の承認審査では、臨床試験データに基づき、対象の患者集団にもたらす利益が副作用などのリスクを上回るかどうかが重視される。
専門家の間では、レカネマブ、ドナネマブともに画期的な新薬ではあるものの、その効果は限定的との見解で一致している。2023年発表の主要な臨床試験データ外部リンクによれば、レカネマブは早期アルツハイマー病患者の認知機能の低下をプラセボ(偽薬)群と比較して27%抑制した。ドナネマブも認知機能低下を35%抑制したと主要な臨床試験で報告されている。だがこの効果は認知症の発症をわずか4〜8カ月遅らせる程度に過ぎないと指摘する専門家外部リンクもいる。
特に懸念されているのはアミロイド関連画像異常(ARIA)と呼ばれる脳の腫れや出血などの副作用だ。MRI(核磁気共鳴画像)で確認され、多くは無症状だが重篤で死亡に至るケースが稀にあるという。臨床試験ではドナネマブの方がレカネマブよりもARIA発生率が高いが、実施仕様が異なるため、単純比較はできない。
一方、ARIA副作用のリスクを高める遺伝子外部リンクの存在が確認されている。アポE遺伝子と呼ばれる、脂質の輸送や代謝などに関わるアポリポタンパク質Eをコードする遺伝子で、ε(イプシロン)2、 ε3、ε4の3種類の遺伝子が2つ1組(例えばε2とε2、ε3とε4など全部で6種類)で働く。組み合わせは人によって異なり、ε4を多く持つ人ほど副作用の発生リスクが高い。レカネマブ、ドナネマブともに、ε4の2つ保持者、1つ保持者、非保持者の順にARIA発生頻度が高いことが臨床試験で確認されている。
エーザイによれば、スイスメディックは審査においてアポE遺伝子を重視し、レカネマブの承認をε4非保持者のみに限定した。これはε4の非保持者だけでなく1つ持つ患者も対象に承認した欧州規制当局の条件より厳しい。
アルツハイマー病患者の脳には2つの大きな特徴がある。1つはアミロイドβ(ベータ)タンパク質が集まり大きな塊(プラーク)を形成した状態で、もう1つはタウタンパク質が蓄積し神経細胞内で繊維化した状態だ。アミロイドβはアルツハイマー病の症状が出る少なくとも20年前からプラークを形成し始めるとされ、アミロイドβの沈着がタウタンパク質凝集の引き金だとする仮説が広く受け入れられている。だが脳内に顕著なアミロイドβプラークがあってもアルツハイマー病の認知機能障害の症状が全く出ない人もいる。なぜアミロイドβが蓄積するのか、それがどのように神経細胞に損傷を与えるのか、タウタンパク質の凝集とどう関係するのか、これらが病気の発症にどのように関与するのかなど、アルツハイマー病についてはまだ謎が多く、解明に向けた研究が進められている。
一方ドナネマブについては、スイスメディックは条件を緩和しε4の非保持者と1つ保持者を対象に承認した。なぜレカネマブと異なる条件にしたのかは不明だ。
ε4を1つまたは2つ保持する人は世界のアルツハイマー病患者の約40〜65%外部リンクだとされるが、スイスのアルツハイマー病患者における割合の把握は難しい。
エーザイは、スイスメディックがレカネマブ投与(2週間に1回)期間を上限18カ月に限定したことも重要な争点の1つだったと指摘している。同薬の標準投与期間は18カ月だが、本来明確な期間を定めない継続的な治療を想定しており、長期的投与により疾患の進行を遅らせる効果がある可能性が報告外部リンクされている。
スイスメディックの広報担当者はスイスインフォの取材に対し、発表前の公開評価報告書は開示できないとし、申請取り下げの詳細についてもコメントできないとメールで回答した。
揺れる各国の判断
アルツハイマー病の新薬審査に苦慮しているのはスイスだけではない。
欧州連合(EU)の医薬品承認機関、欧州医薬品庁(EMA)の主要委員会は当初、「効果は限定的で副作用の可能性がある」としてレカネマブの承認は見送るべきだと勧告した。だがエーザイの異議申し立てを受けて再評価を実施し、特定の患者群に対しては利益がリスクを上回ると評価を変更外部リンク。2025年4月15日に欧州委員会はレカネマブを承認した。ただし、 ARIA副作用リスクを減らすため、患者対象群をアポE遺伝子ε4の非保持者と1つ保持者に限定した。
欧州医薬品庁はドナネマブについても評価を変更し、2025年9月に同様の条件を付けて承認した。
承認後も各国の規制当局はこれらの治療薬について、保険適用に値する十分な効果があるかに疑問を呈している。ドイツの医療政策に関する最高意思決定機関、ドイツ連邦合同委員会(G-BA)は2月19日、レカネマブが既存の標準治療を上回る利益をもたらすことを示す証拠はないと判断した外部リンク。
オランダ国立ヘルスケア研究所も2月中旬に同様の見解を示した。ドイツ保健当局は今年4月中旬にドナネマブに関する見解を明らかにする見込みだ。
英国の規制当局はEUと同様の条件でレカネマブとドナネマブを承認した。だが同国のコスト監査機関は両薬ともに価格に見合う効果は得られないと判断したことから、いずれの薬も国民健康サービス(NHS)ではなく民間機関を通じてのみ入手可能になっている。
英国における薬価は非公開だが、米国の薬価(年間)はレカネマブ2万6500ドル(約416万円)、ドナネマブ3万2千ドルだ。日本はレカネマブ約253万円(2025年に薬価引き下げ)、ドナネマブ約298万円で、公的医療保険および高額療養費制度が適用される。
オーストラリアの規制当局はレカネマブについて、ε4非保持者の場合は利益がリスクを上回るが、ε4を1つ保持する患者については安全性が「十分に保証されていない外部リンク」ことから同薬の承認を2回却下した。だがエーザイが異議を申し立て、再審査を実施。最終的に2025年9月、ε4非保持者または1つ保持者を対象に承認された。
オーストラリアではレカネマブ、ドナネマブともに公的医療給付制度(PBS)外部リンク適用外のため、全額自己負担となる。
米国や日本は、アポE遺伝子ε4の有無を承認条件に入れず、ARIA副作用の管理に重点を置く方針をとった。
米国食品医薬品局(FDA)は、レカネマブ、ドナネマブによる治療においては事前に遺伝学的検査でε4の有無を確認し、ARIA発症の可能性を患者・家族と共有することを推奨している。
日本では厚生労働省の「最適使用推進ガイドライン(レカネマブ外部リンク2023年発行、ドナネマブ外部リンク2024年発行)」に、投薬の際にARIA管理を適切・厳格に行うことが必要と記載されている。
また2025年には日本認知症学会などの専門学会の監修による「認知症に関するアポE遺伝学的検査の適正使用ガイドライン外部リンク」が発行され、アポE遺伝学的検査をレカネマブやドナネマブなどを使用する前にARIA発症リスクについて患者・家族と話し合い共同意思決定に活用することや、副作用の発現頻度の予測に活用することは適切だとしている。
アルツハイマー病治療の新時代
インゼル病院のドラガンスキー氏はエーザイの決定についてはコメントしなかったが「これらの治療にはリスクが伴うため、管理を厳格に行い、患者を注意深くモニタリングしながら実施することが重要だ」と指摘した。
種々の懸念はあっても、これらの治療薬がアルツハイマー病に対する認識を変えたことは間違いない。「多くの人はこれまで物忘れは加齢によって自然に起こるものだと思っていた。だが現在はその原因を特定し、治療ができるようになった」と同氏は言う。「レカネマブとドナネマブは、この病気のより良い診断法と効果的な治療法への新しい扉を開いた。だが万能な特効薬ではない」
更にドラガンスキー氏は、スイスが当該研究の議論に参加し続け、患者に最適な治療を届けるためのデータシステムやインフラの構築に貢献するためには、これらの治療薬がスイスで使えるようにすることが重要だと強調した。
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製薬大国スイスを覆う危機感の正体
レカネマブやドナネマブの開発により、アルツハイマー病の治療は大きく前進した。だがまだ多くの謎が残されたままだ。同病の特徴である脳内のアミロイドβプラークを標的にした治療薬は臨床試験で失敗したり、効き目が弱く患者に十分な利益をもたらさずに終わったりしたケースも多い。
また、世界のアルツハイマー病患者の40〜65%がアポE遺伝子ε4の2つ保持者である一方で、ε4を2つ保持していてもその40〜70%は同病を発症しないことがわかっているが、その理由は不明だ。このため、アルツハイマー病の診断を生物学的マーカー(脳内アミロイドβなど)と症状(記憶障害など)のどちらで行うのが適切かの議論も決着していない。
今、数十年の停滞期を経てアルツハイマー病の新薬ブームが訪れている。現在138種類の治療薬について182件の臨床試験が進行中との報告外部リンクもある。
ドナネマブは、イーライ・リリーとスイス連邦保健当局との間で薬価が合意されればスイスで市場化される。一方、レカネマブが今後スイス国内で利用可能になるかは不透明だ。エーザイは「今後も状況分析を続け、将来の承認の可能性を探っていく。そのためにスイスメディックと協議を続ける用意はある」としている。
編集:Virginie Mangin/sb、英語からの翻訳・追加取材:佐藤寛子、校正:大野瑠衣子
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