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ハイテクで「医療制度に改革を起こす」スイスのスタートアップ

個別化医薬品
大手製薬会社は今、個別化医薬品の開発に資金を投じている。万人向けの薬とは異なり、一人ひとりの遺伝情報に合わせた治療を可能にする医薬品だ Alamy Stock Photo

スタートアップ企業ライフジェン(本社バーゼル)の目標は、患者や保険会社が薬に余分な支払いをしなくてよくなることだ。ギリシャ・フェルナンドCEO(最高経営責任者)(33)は、同社が開発した技術でこの目標を実現できると確信する。

「私たちは医療制度を変えたい」。フェルナンド氏は同社の目的をこう断言した。設立5年の医療系スタートアップ企業のCEOである同氏は、バーゼル中心街のショッピングエリアにある平凡なビルに入っている手狭なオフィスでswissinfo.chに語った。「これは生死にかかわる問題だ。保険会社が費用の負担を決めかねているせいで、治療を受けられない患者がいる」

脊髄(せきずい)性筋萎縮症の遺伝子治療薬「ゾルゲンスマ」はこの問題を説明する好例だとフェルナンド氏は話す。スイス製薬大手ノバルティスが2019年にゾルゲンスマの販売を開始した時、1回の投与で210万ドル(約2億7千万円)という法外な価格が波紋を呼んだ。同社は、この病気の既存治療薬を10年間投与した場合の費用よりもずっと安いと主張する。

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2億円の医薬品 なぜそんなに高額なのか

このコンテンツが公開されたのは、 米食品医薬品局(FDA)はスイス製薬大手ノバルティスの脊髄性筋萎縮症(SMA)に対する遺伝子治療薬ゾルゲンスマを承認した。この薬が話題をさらったのは、史上最高額の210万ドル(約2億3300万円)という薬価だ。なぜそんなに高いのだろうか。

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しかしスイスのような裕福な国でも、この死に至る遺伝性疾患の子供を持つ家族は、治療費を払うためにクラウドファンディングで資金を募っていた。たった1人の患者にここまで高額な薬を認可し支払うことを保健当局が躊躇(ちゅうちょ)したためだ。

大手製薬会社は今、万人向けの薬ではなく、個人の遺伝情報に合わせた個別化医薬品の開発に大金を投資する方向に動いており、今後このようなジレンマはますます頻発するだろう。ゾルゲンスマなど、こういった治療法は患者に劇的変化をもたらし、命を救うことも多い。しかもたった1回の注射や点滴で済む場合もある。だがその価格は目が飛び出るほど高額で、民間保険会社や政府など各医療制度で費用を負担する保険者に既に衝撃を与えている。

ライフジェンCEO
ライフジェンCEO、ギリシャ・フェルナンド氏。29歳で世界的な大手製薬会社での待遇の良い仕事を手放し、スタートアップ企業の設立者という不安定な生活を選んだ。5年後の現在、同社が目指すのは米国市場だ Jessica Davis Plüss/swissinfo.ch

起業家にはよくある視点だが、フェルナンド氏も多くの人が問題視するところに起業のチャンスを見出だした。つまり、新しい複雑な治療にも対応できる新たな支払いモデルを提供する会社の設立だ。2018年、同氏はビジネスパートナー2人と共に、保険者が製薬会社と結ぶ何千もの契約書を分析できるテクノロジープラットフォームの構築に着手した。目標は、誰もが対価に見合った薬を手にできるようになること、そして薬の価格が患者の命を救う妨げにならないようにすることだ。

5年後、従業員は25人となり、ライフジェンは世界最大の医薬品市場である米国市場に挑む準備が整ったとフェルナンド氏は話す。

起業のひらめき

大胆な語り口や大いなる野望とは裏腹に、フェルナンド氏の物腰は控えめで礼儀正しい。「ヘルスケアは厄介なテーマだ。課題や問題がとても多い。問題に取り組みたいと思うなら、少しバカにならなければならない」とswissinfo.chに話す。

スポーティで今人気の白いヴェジャのスニーカーを履き、ブレザーの胸ポケットにはチーフを挿している。リスクを冒してでも現状を変えることを教えてくれた両親の教育方針に感謝していると言う。

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担当: Jessica Davis Plüss

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医療をより身近なものにするために、どうすべきだと思いますか?製薬会社は何をすべきでしょうか?

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内戦中のスリランカから脱出した家族に連れられ、3歳の時にスイスにやってきた。難民収容施設での生活を経て、両親は最終的にバーゼルで職を見つけた。母は教師として、父は小さなバイオテック企業で働いた。

「両親は全てを捨てて家族のためにここで新しい生活を始めなければならなかった」と振り返る。

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現地校とインターナショナルスクールの両方に通い、現地の子供と製薬会社幹部の外国人の子供のどちらとも友達になった。英語、バーゼル方言、標準ドイツ語、フランス語を巧みに切り替えて話す生活だったという。スイス農薬大手シンジェンタでインターンシップをし、在学中から製薬大手ロシュで働き、ロシュ最年少の役員誕生への道をまっしぐらに歩んでいた。

しかし29歳の時、世界の製薬大手での待遇の良い仕事を捨て、スタートアップ企業の創業者という不安定な生活を選ぶ決意をする。リスクを冒すに値するひらめきを与えたのはロシュだった。同社が個別化医薬品に重点的に投資を始めた時、フェルナンド氏はIT部門で価格設定と市場参入を支援する仕事をしていた。

同氏はそこで、薬代の払い戻しのプロセスが極めて非効率的で、大量の医療データを処理しなければならないが、ゾルゲンスマのような個別化医薬品が市場に出てくると、事態は一層悪化する一方であることに気づいた。

医薬品の支払い方法を刷新する必要があり、それにはテクノロジーが欠かせない。そう確信した同氏は2018年末、共同設立者のニコ・ムロス氏とミシェル・モーラー氏と共に、ライフジェンを創立。バーゼルの裕福な一家から調達したシードステージの資金と自たちの貯金を元に、医療・金融・テクノロジーという各自の知識を統合した新興企業が誕生した。

システムを変える

同社はまず、費用を負担する保険者と製薬会社の間で行われる慣習的な会計取引で生じるコストの削減に着手した。しかし真のチャンスは、フェルナンド氏が「価値」と呼ぶ基準を組み込んだ新しい支払いモデルの構築にあると同氏は考える。

従来、保険会社や病院は薬の投与回数や量に応じて製薬会社に支払い、薬に効果があったかどうかは考慮されなかった。しかし治療薬が1億円を超える現在、支払う側も慎重になってきている。既存の治療法と比較して、患者の健康状態の向上という点で、その薬に価格に見合う価値が本当にあるのか疑問視するようになったためだ。

さらに、数か月間にわたり投与される抗がん剤の費用を、従来のように月々の請求書で支払うのではなく、一部の患者は1度に210万ドルもの支払いが求められるようになる。しかもその薬が特に長期的に見て有効だという保証はない。このようなリスクを背景に、保険者はこの新しい治療薬をそもそも支払うべきなのか、もし支払うのであればどう支払うのか、頭を悩ませている。

「このような1度の投与で効果のある治療に関する製薬業界のビジネスモデルは、従来と全く異なる。そして現行の払い戻しシステムは、このような治療に対応するようには設計されていない」とフェルナンド氏は話す。臨床試験中の新薬候補(パイプライン)には、千以上の細胞や遺伝子治療が並ぶ。そのわずか一部が市場に出回るだけでも、今後10年で医療費外部リンクの負担は米国だけで3千億フラン(約42兆円)増加すると予想されている。

政府が薬の保険適用を拒否した結果、製薬会社が市場から撤退すれば、不利益を被るのは患者だ。既にブラジル、英国やその他の国ではこういったことが現実となっている。今から2年前、ボストンに本社を置くブルーバード・バイオは、ベータサラセミアと呼ばれる血液疾患向けに1回で効果のある遺伝子治療「ジンテグロ」を開発したが、ドイツ政府が180万ドル(約2億3千万円)という法外な価格を保険に適用することを認めなかったため、欧州市場から撤退した。

健康保険は何年も前から「価値」を基準とした契約の導入を議論している。つまり、生活の質が向上する日数、入院回数の減少といった指標を価格や払い戻しシステムに反映させるというものだが、実現する方法がなかった。

ゾルゲンスマ
1歳4カ月のマーリーの両親はゾルゲンスマのために米国に行く資金を集めていたところ、同薬が英国でも承認されたというニュースが舞い込んだ Alamy Stock Photo

「医療制度に1千万ドルの負担がかかる患者が治るなら、薬に350万ドル出しても構わないのではないか?そうすれば650万ドルの節約になるが、それを計算する方法がなければこのケースの価格を正当化するのは難しい」(フェルナンド氏)

ライフジェンのプラットフォームは、契約書をデジタル化し、病院の実際のデータを組み込み、AIのアルゴリズムを使って薬の効果を調べ、一定の条件下での適正価格を調べることで、この問題に取り組んでいる。このプラットフォームはまた、何千、将来的には何百万もの保険契約書を分析し、特定の薬や保険者にとってどの支払いモデルが妥当かを探し出す。

例えば、製薬会社は30日以内に患者に効果が現れなければ全額返金することに同意することもあり得る。

契約書の様々な条件は無数にあるとフェルナンド氏は説明する。ライフジェンが収集した公的な薬品、医療機器の価格を決める協定書の数は世界一で、約2千種類にもなるという。

さらなる挑戦

ライフジェンは現在、重要な局面を迎えている。同社はこれまで、ポルトガル、スペイン、サウジアラビア、カナダなどの国で約15の保険者が400以上の「価値」を基準にした契約を実施するまでに発展した。さらに、製薬会社上位10社のうち8社もが同社のプラットフォームにアクセスするための年会費を支払っている。

最大の目標は、米国市場だ。米連邦政府が管轄するメディケア(高齢者向け公的医療保険)が製薬会社との直接価格交渉を行い、特定の医薬品について「最高公正価格(Maximum Fair Price)」を設定できるようになるためだ。価値を元にした価格設定はここで大きな役割を果たすことになると期待される。

現在バーゼルとニューヨークを行き来する生活を送るフェルナンド氏は、米国を「制覇」すればライフジェンは3~5年で利益を出せると考える。最大の難関は営業チームを組織する十分な資金の確保だ。同社はイスラエルのベンチャーキャピタル、エイムーン(aMoon)からの巨額出資により、約1千万ドル(約13億円)を調達した。ベンチャーキャピタルは、新型コロナウィルスによる投資ブーム後に失速する企業が多かったバイオテックに対し懸念を深めており、投資家の説得に奮闘中だという。

フェルナンド氏はまた、逼迫(ひっぱく)する医療制度と利益重視の企業との間の利害関係を調整しなければならない。

「医療業界では誰もが対立する利害関係にぶつかる。私たちは患者が医薬品を購入でき、医療のアクセスしやすくなるよう支援する仲介者だ。保険社と製薬会社の間に立つスイスのような存在だ」(フェルナンド氏)

編集:Virginie Mangin、英語からの翻訳:谷川絵理花

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