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パピルス学の専門家がジュネーブの至宝を視察

ボドメール財団の古文書美術館は、世界最高レベルの貴重なパピルスの古文書を一点所蔵している Keystone

「メナンドロスの原本を見た方はいますか?」一人の研究者の鋭い声が聞こえた。地下に位置する美術館の中では、薄明かりの下で古代の至宝を追う大勢の学者が興奮状態にあった。

8月下旬ジュネーブ市で開催された国際会議の合間に、パピルス古文書の専門家の一団が、ジュネーブ市近郊の町コロニー ( Cologny ) にあるボドメール財団の古文書美術館を訪れ、貴重な古文書を視察した。

「死ぬほど欲しい」

 「おお、あれです。あれが今回のハイライトです」
 とオックスフォード大学の元ギリシャ語教授ペーター・プレストン氏は、ほかの研究者を押しのけてガラスの展示ケースへ向かいながら大声で言った。

 展示ケースの中には、喜劇『気むずかし屋-人間嫌い』を記した茶色の薄いパピルスが展示されている。これは紀元前4世紀のギリシャの人気喜劇作家メナンドロスが書いた喜劇三部作の「失われた」手書きの原稿のうちの一つだ。
 「まるで誰かが原稿の角を鍬で突き刺したかのように見えます。少々破損していますが、ほとんど完璧な状態です」
 とプレストン氏は言う。

 「ホームコメディの父」と呼ばれる古代ギリシャの劇作家メナンドロスの原稿の断片がエジプトで発掘され、専門家がそれらの断片をつなぎ合わせた。そして1950年代後期から1960年代にかけて出版した結果、20世紀にメナンドロスの再発見が起きた。

 「メナンドロスは当時最高レベルの劇作家の一人でしたが、突然姿を消したのです。私たちの仕事はそうした作家を忘却から呼び戻すための一手段です」
とプレストン氏は説明した。

 メナンドロスの手書きの原稿はボドメール財団の古文書美術館 ( Fondation Martin Bodmer Bibliotéque et Musée ) に所蔵されている27点のパピルス・コレクションの一部に過ぎない。そのコレクションには、新約聖書と旧約聖書の写本、キリスト教の初期の資料、ホメーロスの『イーリアス』などエジプトで1952年に発見された古文書が含まれている。

 「これは、『死海文書』とナグ・ハマディが発見した古文書に次いで3番目に貴重なパピルスの古文書です」
 と美術館の館長シャール・メラ氏は言う。
 「今日は皆さんのために、私達のコレクションの中でも特に美しいものを選りすぐりました」
 とメラ氏は、ほかの二つの展示ケースを指し示した。一つのケースには、紀元後200年のギリシャの「ヨハネによる福音書」の写本の一部が、もう一つのケースには現時点で存在が確認されている新約聖書の写本の中で最古のものが展示されている。

 「ここにあるものは信じられないほど素晴らしい。死ぬほど欲しい」
 と専門家の1人が同僚につぶやいた。

広範な視野

ジュネーブの「ビバリー・ヒルズ」に位置するボドメール財団の古文書美術館への訪問は、「第26回国際パピルス学会 ( The 26th International Papyrology Congress ) 」に出席した約300人の専門家にとって副次的な行事だった。

 パピルス学は、主に古代ギリシャ語でパピルスに手書きで記された写本や古文書を研究する学問だ。古代のエジプトでは約1000年もの間ギリシャ語をコミュニケーションのための公用語として使用していた。しかしコプト語、アラム語、アラビア語、そしてエジプト語で記された古文書も存在する。

 「学会では、考古学、歴史、文学、宗教と幅広い分野を網羅します」
 とジュネーブ大学のギリシャ語教授で、3年毎に国際パピルス学会の企画開催を担当するポール・シュベール氏は語った。

 今年焦点が当てられているのは考古学だ。
 「当時の村や町がどのような様相をしていたのか再現を可能にする古文書が存在するので、実際の発掘と重ね合わせることができます」
 とシュベール氏は語った。

現代の技術

 学会開催中の約一週間は、世界中から集まった学者が新しい研究を発表し、古代のエジプト、ギリシャ、ローマの文明の研究を深めるために技術やアイデアの交換を行った。
「聖書に出てくるテーマを基にして古代ギリシャ時代に書かれた悲劇を記したパピルスの断片が出土したことを聞きました。パピルスには普通ソフォクレスやエウリピデスのような古典様式の悲劇が記されているので、非常に珍しいことなのです」
 とシュベール氏は説明した。

 インターネットのような現代の技術はパピルス学の研究者にとって非常に大きな助けとなる。特に、現存する大量の資料の分類や、ネットワークの構築のような作業では大きな威力を発揮する。さらに将来は、パピルスの巻紙をスキャナーに通すことによってコンピューターの画面上でそれを広げることもできるようになるかもしれないとシュベール氏は付け加えた。

 専門家はデジタル画像を用い、コンピューターの画面上で古文書の断片をつなぎ合わせることが多くなったが、今でも簡素な顕微鏡でパピルスの原本を見ながらつなぎ合わせるという基本的な技術に頼っている。

鋭い目

 「古文書を読み解くには古代ギリシャ語に精通し、その内容に従って古文書が書かれた年代やパピルスの断片がどのように組み合わされるかを判定し、断片と断片の間に入るべき文章を解明できる鋭い目が必要です」
 とシュベール氏は語った。

 プレストン氏もシュベール氏に同意する。
 「パピルスが裂けて痛んでいることや、古いキャベツの葉が付着している可能性があることをも考慮する鋭い目が必要です。もしかしたらそれは、男子学生が持っていたホメーロスの写本かもしれない、または肉屋が帰宅したら食べる予定にしていた肉のリストかもしれないという風に、それが実際に存在した人々のものであるということを古代ギリシャ語で考え想像できなければなりません」

 手紙、契約書、請求書など、古文書が大量に出土したエジプトは、当時の人々の日常生活の詳細が地中海地方で一番明らかになっている場所だとシュベール氏は言う。

 また、パピルス学は、サッフォーやイビュコスなどの詩人による抒情詩など、われわれの知識が非常に限られている古代のギリシャ文学についての見識をもたらしたとシュベール氏は指摘した。

新しい発見

 エジプトの中央部の砂漠の端にある多数の発掘現場からは、現在もパピルスの出土が続いている。しかし、地元の人々が灌漑 ( かんがい ) を始めた地域では、発掘は時間との戦いになる。

 カイロから160キロメートル南西に位置するオクシリンクス ( Oxyrhynchus ) のような場所で19世紀末に発掘されたパピルスの量と比較すると、今日出土したパピルスは非常に少ない。それらの19世紀末に発掘が行われた場所では、専門家が砂の中に埋もれていた町のゴミから大量のパピルスを掘り起こした。

 しかしプレストン氏は、博物館の収蔵庫からも新しい資料が出てきていると言う。
 「オックスフォードには、まだ研究が必要なパピルスが5万枚もあります」

 また、エジプトのミイラの棺 ( ひつぎ ) はサルコファガス ( 古代ギリシャ時代に石棺に使われた大理石 ) などの石でできていたが、パピルスで作った厚紙でできた棺もあり、そうした変わったものから出てきた古文書もある。

 「新しいバイオ洗剤のなかにひたすと、糊が溶けだしてパピルスが浮かび上がります。そしてあとはそれらをつなぎ合わせるだけなのです」
 とプレストン氏は語った。

1971年にスイス学会とコレクターのマルタン・ボドメールによって設立された。古代から現代の文書と書籍など16万点余を所蔵する。
コレクションには、「ヨハネによる福音書」のほぼ完全な最古の写本の一つである「パピルス66」、グリム童話の原本、スイスに存在する唯一のグーテンベルグ聖書、モーツァルトの弦楽五重奏の直筆楽譜、マルキ・ド・サドの『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』の巻紙に書かれた直筆原稿、ギュスターヴ・フローベールの『ボヴァリー夫人』、『ドン・キホーテ』、『ファウスト』の原書など著名な作品の写本、直筆原稿、初版本などが含まれている。
また「ボドメール・パピルス」と総称される貴重なパピルスの古文書も含まれている。それらの古文書の中には、新約聖書と旧約聖書の写本、初期のキリスト教の資料、ホメーロスやメナンドロスの作品を記したパピルスの断片が含まれる。

ティチーノの建築家マリオ・ボッタが設計したボドメール古文書美術館は、ジュネーブ近郊のコロニー ( Cologny ) に位置しており一般に公開されている。常設展示のほかに毎年4つの特別企画展が開催される。
ボドメール財団は、ジュネーブ州 ( 年間50万フラン/約4114万円 ) とコロニーからの補助金および個人からの寄付を受けている。

( 英語からの翻訳 笠原浩美 )

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